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7/20(土)に、順天堂大学でボードゲームについて講演します!

以前にもご案内しましたが、順天堂大学の「MEdit Lab」というプロジェクトにお招きいただいて、表題のとおり今月20日のシンポジウムに登壇します。イベントのタイトルはずばり、「医学をみんなでゲームする2」。

医学と社会の接点をどう作っていくかを、専門家と非専門家が協力しあって模索するプロジェクトらしく、ウェブサイトでは拙著2冊について、温かい書評を寄せてくださいました。イベントへのお招きとあわせて、御礼申し上げます。

それで、改めて自分とゲームのつながりを振り返ってみたんですけど、共著『ボードゲームで社会が変わる』の企画が立ちあがったのは、2019年の春。編集者さんと「どんなゲームを採り上げるか?」を話しあいながら進める中で、テストプレイまで行った作品にはこんなのがありました。

協力ゲーム『グリッズルド:友情は戦争より強し?』。

上記のレビューサイトの紹介がよくできていますが、テーマはずばり、第一次世界大戦の塹壕戦。輪番制で分隊長(リーダー)を担当し、その指揮の下に全員が協力して生還をめざす……のですが、これがまさに息詰まるプレイ感でして。

1ターンにカードを多く消費するほど、故郷への帰還が近づくので、分隊長としてはなるべく多く手札を配り、多く使わせたい。ところが6種類ある戦場での困難(砲撃とか豪雨とか)のうち、どれか1つでもダブり過ぎるとミッションは失敗し、余った手札は全部ダメージになるので、欲をかくと一瞬で部隊が全滅――生還どころか故郷に慰霊碑が建ってしまう(つまりゲームオーバー)。

しかも徐々に戦傷者が増え(=ダメージカードを自分の前に置く)、思いどおりにカードを出すことさえできなくなってゆく。救護のコーヒーを贈るオプションで、ダメージカードは無効にできるけど、ここでも「誰がいちばんピンチか?」についてメンバーの息が合わないと、どの人も回復しないまま次のミッションが来てしまう。

ボードゲーマーの用語でいうと、協力型の「洗面器ゲーム」になります。つまり、どれだけ我慢できるかを味わう作品。遊びだから楽しいけど、リアルな毎日がこれになったらと思うと、恐ろしいですな。

……ところが2020年からは、本当に毎日がそうなっちゃったんですな。

この『グリッズルド』、実は2021年に、現代の医療機関を舞台にする『ウィ・ケア』(We Care)としてリメイクされています。言わなくてもわかりますよね? 要は、新型コロナ・バージョンが出たわけです。

『ボードゲームで社会が変わる』では6つの作品のプレイ記を、それぞれ別の豪華ゲストに寄稿していただいていますが、実はこの『ウィ・ケア』でという幻のプランもあり、その際にお願いする識者も決めていました。もっぱら他の5作品とのバランスの兼ねあいで、ナシになりましたが。

そして、一時は自粛でボードゲームカフェすら開店できず、同書の企画が停滞している間に、2022年2月、ウクライナ戦争が勃発。

第二次世界大戦を再現する『主計将校』のプレイ記(寄稿者は辻田真佐憲さん)には、その影響も色濃く出ています。こちらは世界地図の上を「1人1か国」で陣取りしあう戦略級ゲームで、つまり、塹壕の分隊目線ではなく「参謀本部目線」。

ゲームっていわば、仮想の追体験ですよね。小説や映画もそうだけど、ボードゲームの場合は対面で、互いに会話しあいながら追体験する点が、他では得られない集合的なリアリティを生み出してくれます。

もはやわれわれ日本人の多数は、幸いにもガチンコの戦争のリアルって知らないんだけど、もし追体験するならせめて、塹壕も参謀本部も両方知っておくことが、たぶん大事だと思うんですね。

だけど世の中には、なんでお前は「常に参謀本部に居るという前提なんだよ」みたいな人たちが、よその国の戦争を素材にSNSで参謀ごっこを繰り広げ、そこに混じって指揮官ごっこを始めちゃう「専門家」とか(大学の教授ですよ?)が出てきちゃってるんですね。

……いやいや。専門以前に人として、あかんやろ

そうではない「ボードゲームの可能性」って、なにか? を問いかけるようなお話をさせていただければ、と思っています。7/20(土)、御茶ノ水の順天堂大学まで、多くの方が足をお運びくださるなら幸いです!

(ヘッダー写真は、こちらの販売ショップより。兵隊さんひとりずつに実在した名前を附してあるのも、製作者のヒューマニズムを感じます)

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