「主観的な世代感」と社会の分断
1/20(土)の『東京新聞』書評欄に、インタビューが掲載されました(ウェブ版はこちら)。同紙と同じ系列のため、『中日新聞』にも翌日転載された模様です。
担当して下さった中村信也さんには以前、青山直篤さん(朝日新聞記者)の米国取材ルポである『デモクラシーの現在地』の書評を載せていただく際にも、お力添えをいただきました。今回の取材とあわせて、御礼申し上げます。
インタビューは昨秋刊の拙著『危機のいま古典をよむ』をめぐるものですが、同書のうち第二部は私の読書遍歴を小学校まで(苦笑)遡って書いていることもあり、取材当日は世代トークでも盛り上がりました。
「精神年齢」と呼んでしまうと、どうしても高い人がエラくて低いやつはダメというニュアンスになってよくないのですが、「主観的世代感」みたいなものは実際に存在すると、個人的には前から考えています。
(客観的な)実年齢と(主観的な)世代感覚がズレない人もいる一方で、私の場合は90年代半ばの思春期に見た映画や読んだ本が、著しく60~70年代の方に寄っていたために、主観的世代感が年長の方に大きくズレた。
今回のインタビューで「最新情報をネットで検索するより、古典の書物を」とお話ししているのも、見ようによってはその表れでしょう。
しかし私のような例は意外にレアらしく、今日ではむしろ主観的な世代感を年少の方にズラしたくてたまらない人たちが増えている。おそらくそこに、日本の問題の淵源がある気がします。
いい年をした大人(場合によっては老人)が、なんとしても主観的な世代感を「Z世代」に合わせたくて、彼らのやること為すことすべてを肯定し、著書や論説で「この世代こそが希望!」と持ち上げる。
しかしそのZ世代もやがて年をとり、バズらない存在になるので、そうなったら次は「Z世代はハズレだった。α世代こそが希望!」と、今から乗り換える気まんまん(著者近影のニヤつきと、あと文章の行間にそう書いてあります)。
『平成史』ほかの著作で、私は日本の社会や言論の停滞を「ループもののアニメ」によく喩えるのですが、そうなる理由のひとつがこうした「有識者の知的アンチエイジング」でしょう。まぁこれでもだいぶ褒めた言い方で、それこそ60~70年代には 【今日の基準に照らして相応しくない表現があり削除しました】 と呼ばれたんですけど。
それとは180度逆の方向にある、まったく別の可能性が伝わるインタビューになっていればと思います。多くの方の目に留まれば幸いです。
(ヘッダー写真は、「主観年齢」をめぐる宣伝会議の記事より。これ自体は単なる「若作り」を示すデータですが、めぐりめぐれば世代感覚にも反映しそうですね)
追記(1月22日)
ウェブにも掲載されたためリンクを追加し、『中日新聞』への転載情報も補足しました。
追記2(1月29日)
その後、28日の『産経新聞』にも文芸批評家の酒井信さんによる書評が載りました。記して感謝します。