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機械の中の幽霊|哲学学習ノート

「カルビーのポテチを売上1.3倍にしたAIの正体--プラグのパッケージデザインAIの実力」という記事をYahooニュースで読みました。その後はいそいそとコメント欄へ。

昔は下衆なコメントが多く「魔境」とも呼ばれていた悪名高いヤフコメですが、最近はかなりまともになってきて、思いやりあふれるコメントや思慮深いコメントも増えてきました。それでも、芸能や事件関係のニュースだと匿名コメント欄だけあってまだまだ誹謗中傷や陰謀論めいたものがたくさんあります。でも私、ヤフコメ読むのが結構好きなんですよね。私って低俗だなと思いつつもやめられないのです。いわゆる "Guilty pleasure(ギルティー・プレジャー)"、ちょっと後ろめたい楽しみってやつです。

とは言え、今回のはテクノロジー系ニュースなので、そういうゴシップめいたものはありません。私の目当ては読者のAI(人工知能)に対する評価でした。すると、やはりありました。「AIは過去のデータから統計的に最善のものを選べるだけで、創造的なことはできない」という趣旨のコメント。

私はAIのプログラミングだとかアルゴリズムだとかはさっぱり分からない人間ですが、このデザイン評価AIは、パッケージ画像をアップすると過去の消費者データなどから「好意予想」や「連想ワード」などの4つのカテゴリーごとに数値で評価してくれるということですので、これに関してはヤフコメの言い分は妥当です。

ただ、AI全般に対して「創造力や発想力がない」と言う人も相変わらずいて、そういう意見を目にすると「どうかそうであってくれ」という願いが潜んでいるのを私は感じます。私は逆に「なぜ人間ができることをAIができないと思うのか」と思います。
同じ機能が再現されていれば、脳が神経細胞ではなくシリコンチップでできていたとしても同じことができるだろうと思うからです。今はまだ無理でも将来的には作ろうと思えば作れるだろうと思うわけです。ついでに言うと、人間の脳と同じ機能を達成した時点で心も発生していることでしょう。…というのはSF作品に影響されすぎでしょうか。これの答えは、人工知能が人間の知能を超えるとされるシンギュラリティの年、2045年までには判明しているのでしょうね。あと24年…。結構近い!

話を戻しましょう。私のこの考え方は分類上、「機能主義」になるのかもしれません。まだ勉強し始めなので理解がちょっとあやふやですが、機能主義というのは、心は脳の機能に付随するもので、別々ものではないという考え方です。
心身の在り方に関しては、他には「性質二元論」、「中立一元論」、「唯物論(物理主義)」などがあるそうです。

というわけで、予告しておりました哲学の学習ノートを始めます。教材は、「ビッグ・クエスチョンズ 哲学」(サイモン・ブラックバーン著 /2009年)ですが、未読の方にも分かるような解説を心掛けています。今回は第一章「私は機械の中の幽霊か?」


デカルトの実体二元論


さて、心身の在り方についての考え方で有名なのは「実体二元論(心身二元論)」です。体と魂が別々の実体として存在するという考え方です。
古くはプラトンまで遡る実体二元論ですが、代表的な哲学者は17世紀のルネ・デカルトとされています。デカルトは精神は脳の松果体というところに宿っていると考え、そこから体の各所に指令を与えているとしました。このデカルトのモデルは、まるで脳の小部屋に見えないパイロットが陣取って体全体をコントロールしているようなイメージを与えるため、20世紀の哲学者ギルバート・ライルは「機械の中の幽霊」と呼びました。このイメージは、科学者を除けば現代でも一番受け入れられている考え方なのではないでしょうか。死んだら魂だけがどこかへ行く、というのは独立した魂があってこそのものです。デカルト・モデルの問題は、これが精神の秘密そのものを解明するものではないことです。

デカルトの実体二元論は現代の学者の間では時代遅れとなっており、代わりに、実体は一つだけれど物理的な性質と心的な性質(主観的な意識やクオリアと呼ばれる感覚的経験)の二つの側面があるとする性質二元論にほぼ置き換わっているようです。

しかし、やはり二元論は強いのです。なぜしぶとく二つに分かれているのか?

人間の心の内面の活動、例えば何かを想像したり様々な感情を抱いたり、味や色などの感覚的体験をしたり、はたまた思考したり…これらはすべて自分目線で行われています。自分の内面の世界は自分にしか体験できません。脳の状態や神経細胞の電位変化をいくら観察しても、あなたが脳裏に描く景色をそのまま抽出して他人に実感させることはできません。
私が美味しいタマネギ・スープを飲んで感じている「味」そのものを物理的・客観的に説明することもできません。
こういったことから、脳の「外側」の物理的現象と「内側」の意識的現象の間には厳然とした断絶があり、両者はそれぞれに独立したものであると考えざるを得ないように思われるのです。この断絶を現代の哲学者たちは「説明のギャップ(explanatory gap)」と呼んでいます。
この説明のギャップがある限り、私たちは他人が本当に自分と同様の意識を持っている存在かどうか、本当のところは知ることができません。物理的な現象の説明をいくらしたところで、他人の意識を自分で体験することはできないからです。


説明のギャップと3つの思考実験


この問題を乗り越えるべく、本書では次の3つの思考実験が紹介されています。
「哲学的ゾンビ」、「逆転スペクトラム」、「スーパー科学者メアリー」です。

哲学ゾンビ … 身体的・機能的には普通の人間と全く同じだが、自己意識を持たない。外見や行動からは違いが分かりません。だから米ドラマの「ウォーキング・デッド」みたいなのを思い浮かべてはダメです。このような哲学ゾンビは存在可能でしょうか?また、自分以外の人間が哲学ゾンビでないと知る方法はあるでしょうか?
逆転スペクトラム … 色の見え方が普通と逆であることを除けば、何もかもが他の人と変わらない人がいると仮定する。皆が青系に見えるものがその人には赤系に見える。つまり、その人が「空が青くてきれいだ」と言う時、実際の空は青いがその人には空が赤く見えている。そういう人が存在していながら、本人も周囲の人間も違いに気付かないという状況はあり得るのでしょうか?
スーパー科学者メアリー … メアリーは物理・化学・生理学・脳科学 etc.と人体の仕組みと科学に関することなら何でも知っている天才科学者である。彼女はある事情から今まで色のない白黒の部屋に閉じ込められていた。しかし、あるときメアリーはその部屋から解放される。
彼女がもしバナナを提示され、初めて黄色を見たら「ああ、黄色を見るってこんな感じなのね!」と感嘆するでしょうか?そうであるなら、説明のギャップは確かに存在するということになります。


では、本書の著者が上記の各思考実験において、どのように説明のギャップを克服し、意識的現象と物理的現象の一元化…というか、合理的なメカニズムによって連動していることを証明しようとしているかを見ていきます。

まず、哲学ゾンビ。
これは、魂は体と別物というデカルト・モデルであれば存在は可能です。体だけで魂が無いのが哲学ゾンビというわけです。
さて、外見では分からない哲学ゾンビを私たちはどうやって判別することができるでしょうか?相手の意識を覗くことができない代わりに、微細な表情の変化や反応のスピード、仕草などを注意深く観察してみたらどうでしょう。もし、そこにぴったりと連動する意識の存在を感じ取ることができれば、相手も自分と同様の存在であると判断できるのではないでしょうか。意識と表情・仕草をいわばワンセットとして考えるのです。いくらゾンビが外見的に同じと言っても、意識が無ければどこかしら行動や言動に不自然さが現れるだろうというのが著者の意見です。


次に逆転スペクトラム。
自分が見ている色と他人が見ている色が同じかどうかを体験して確かめる方法はありません。しかし著者は、色の見え方が規則的かつ大きく違っていればどこかにそれが現れ出るはずだと言います。なぜなら、色は感情と結びついていたり、また、色同士が複雑な関係を持っていたりするため、それらすべてに齟齬をきたさない置換というのが不可能だと考えられるからです。つまり、そういう不自然さや矛盾を感じさせないのであれば、その人の意識世界は自分と同じであると考えることができるのではないでしょうか。


そして最後に科学者メアリー。この「色を見たときの感じ」が物理的な現象として説明できないというのは、説明のギャップの典型例なのですが、著者の説明が理解できなかったので解説をパスします。尻切れトンボでごめんなさい。


動物は人間のような意識を持っているか?


著者は人間以外の生物の意識についても触れています。
動物にも意識があるというのが一般人の感覚だと思いますが、動物の意識は、人間の意識とは違っているだろうと学者たちは考えているようです。
例えば、釣り針にかかった魚は痛みを感じているように見えるかもしれませんが、それは人間が痛みを感じている状態とは違い、どちらかと言えば、日照りで木がストレス状態にあるというのに近いのかもしれません。
自分目線の意識(主観的意識)が存在するには脳や体を見渡せる高次の能力が必要であり、言語を使う人間以外は持てないと多くの学者が考えているようです。


まとめ

著者がこの章で試みているのは主に実体二元論への反論です。性質二元論やクオリアには触れていません。結論としては、哲学ゾンビのところで書いたように、意識と表情や仕草といった身体的行動は合わせて一つの感情の「表現」だというような説明の仕方をしており、また、「精神は身体のある種の形である」というアリストテレスの言葉を引用していることから、いまは謎だけど、そのうち意識についても脳科学的な物理的現象として説明できるようになるという唯物論的立場なのかなぁという印象を受けました。


感想

まだまだ理解がおぼつかない感じですが、徐々に良くなると思います。

これは私の想像ですが、脳が言語処理に適した形に発達していく過程で、ある段階を越えたら心が発生すようになるのかなぁと思いました。例えば、人間でも生まれたての赤ちゃんは主観的意識を持っていなさそうに見えます。

でも、この問題はやはり脳科学の領域のような気がします。張り切って「哲学勉強します!」と先日、宣言したばかりですが...。
一つ面白いと思ったのが、逆転スペクトラムに関してのヴィトゲンシュタインの指摘でした。
「他人の色の見え方が分からないと言うが、自分の今の色の見え方が昨日と同じだと知る方法もない。自分が昔から今までずっと継続的に同じ意識を持ち続けていたかどうかを確かめる方法もない。」
という趣旨の議論を提示しているのだそうです。
この場合、記憶は証拠になりません。記憶は改変されているかもしれないし、ほんの数分前に生じたものかもしれません。そして、そうであったとしても私たちには知る方法がありません。

こういうことを考えていると現実が頼りない蜃気楼のように感じられてきます。



<終わり>


間違いのご指摘、ご意見、ご感想、有難く頂戴いたします。お気軽にどうぞ!


ありがたくいただきます。