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しなやかな生活、眩い水晶の光

柔らかな日差しの昼下がり、芝生の上で伸びをしながら目を細めた。
「これから先、どんなことがあっても」

最近は日常がこなせずに困ることもほとんど無くなった。生きることが飲み込めずに悶え苦しんだ日々は、決して遠くはないけれど、少しずつ過去の出来事になりつつある。
かつてこの世の真理のように信じていたことは、ただの曖昧な利害感情に過ぎなかったようにも思うけれど、信じていたことには確かな意味があった。
幼さゆえの過ちは、無条件に肯定されるものではないけれど、記憶から消し去るべきでもないのだろう。

かつて私は「普遍的な意味」を追い求めていて、それに躍起になっていた節があった。
「生きることの目的は」「恒久的な美しさは」「誰しもに当てはまる善性とは」
呪いのように唱え続けていた、幻覚を追いかける中毒患者のように。

それらはほとんどが絵空事だったかもしれない。けれど、そんな風に思考することで、誰にも見つけられなかった自分を鼓舞したかったのだろう。
綺麗事だけで生きてはいけないけれど、理想を失った生活はあまりにも無慈悲だ。

思考は目的ではなく道具であり、静的というより動的なものだ。
流れ続けることにこそ意味があるのだし、そうやって生活に息づいていくのだ。
文章を読んだから経験を追体験できるわけではないし、人と対話したからといって自身の思想を変えることはできない。
それでも流動していることが重要で。
濁った沼のように変化を受け入れなくなれば、それこそ思想が死んだということだ。

あの頃見つけたきらきらとした木漏れ日は、いつまでも胸の内で煌めいていたし、雲の切れ間から覗く夕焼けに、初恋のように焦がれ続けている。
それだけで、生きてきたことには意味があったよ。

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