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破天荒のディテール


南方熊楠が好きで、関連書をよく読む。
偉そうに「南方熊楠が好きで」なんて言ってるが、実際に彼の著作を読んだのは数冊だけで(『十二支考』『南方熊楠随筆集』等)、それだけのくせに一体何が好きなんだよと言われたら、まぁ、彼の風貌が好きなのである。
もちろんそれだけではないけれど、あの風貌はそそる。つまらない人物であるはずがない顔をしている。

町田町蔵を主役に映画化されかけ、途中で頓挫したという話があるが、たしかに町田町蔵(町田康)っぽい顔である。作家としての町田康ではなく、映画『ロビンソンの庭』でキンカンの歌などを歌っていたあたりのイメージがドンピシャだ。熊楠に扮した町田町蔵に「フマキラー!」と叫ばせたい。

評伝的なものを読めば、とにかく破天荒であるとか傍若無人であるとか自由闊達であるとか、彼の人間の振り幅の大きさが称揚される。
しかし、いつも思うのだが、本当にハテンコーな人物のハテンコーさというのは、ハテンコーでない人物が書いた場合、結局「ハテンコーだった」ということしか記述し得ないのである。
わかるだろうか。
ハテンコーのディテール、というものが伝わらず、ただハテンコーでくくられる。だって書く人はハテンコーでないのだから。
地面からハテンコーの高さを仰ぎ見て「ハテンコーだなぁ」と言ってるだけである。

だから南方熊楠のような人物を語る場合、勤勉実直な研究者が書いた熊楠伝というのは(申し訳ないが)なんとも面白くないのだ。
そういう意味では町田町蔵の熊楠というのは、もし実現していれば素晴らしかっただろうと思われる。
しかし資金難で頓挫し、撮り始めた頃子役だった人がもう大人になっちゃったから無理、みたいな悲しい結末を迎えた。
しかたはない。いずれ役者ではなく町田康の筆による南方熊楠が、何らかの形で実現されることを期待したい。

・・・・・・

そこで水木しげるの登場である。

水木しげるが死んで1年になる。日本中がかの偉大な妖怪漫画家の死を嘆いたが、しかし彼の残した功績はゲゲゲの世界だけではないのだ。
僕にとっての水木しげるはまず第一に『総員玉砕せよ!』で戦争のリアルを伝えた人であり、『神秘家列伝』で仙台四郎の悲しみを描いた人であり、そして『猫楠』で南方熊楠の破天荒を、はじめてその破天荒の振り幅そのままに描ききった人であった。

『猫楠 南方熊楠の生涯』
水木 しげる
角川書店

水木しげるが熊楠のことを描く。水木しげる本人が思いついたのだろうか。それとも誰か進言する人がいたのだろうか。
いずれにせよ、素晴らしいアイデアである。この破天荒を、同じ高さの破天荒から眺められる、まさに破天荒のディテールを活写できる書き手が他にいるだろうか。

クジラを捕るのにタモアミを持って出かけるバカはいない。
クジラを捕るにはそれなりのスケールの仕掛けが必要だ。

南方熊楠を描くのに最適なスケールの仕掛け、それは水木しげるである、と気づいた本人もしくは進言者に、何か勲章的なものを贈ってもよいのではないだろうか。

結果的に、どんな熊楠研究者が書いた評伝より、水木しげるの『猫楠』は彼の人物のスケール感を活写できていると思う。
残された事績と研究成果、恐るべき博覧強記に変人・怪人伝説、これらを総合して人物像を想像するのは、今までの類書からでは無理だった。いくら情報を入れても脳内にリアルな像として結ばないのである。
だが『猫楠』を読んで、あまりにすとんと腑に落ちるこの感じ。これは何なのだろう。
この世ならぬものを描き続けてきた水木しげるに何か熊楠の霊的なものが降りてきたのか、とさえ思える。というのは嘘だが、破天荒の振り幅が似通っている二人が、見事に共振共鳴した結果なのだろうと受け止める。
本当に、素晴らしいものを描いてくれたなぁと思う。

熊楠の息子が精神を病んで、これまで熊楠が採集してきた標本類を壊してしまうシーンがある。
息子と疎通し得なくなった悲しみと、大切な標本が失われた悲しみのダブルパンチで熊楠が号泣する凄絶な場面は、全世界の文芸作品含めても屈指の「悲しさ」の表現であると思う。
同じく水木しげる描く仙台四郎の「バァヤン!」という叫び、『総員玉砕せよ!』でゴミクズのように死んでいく二等兵の最期の歌。
ギリギリの均衡から閾値を超えて溢れ出す絶望、という場面を描かせたら、水木しげるの右に出るものはないのではないか。

慟哭というのも違う。滂沱といっても足りない気がする。
水木しげる描く熊楠の号泣に、ただただ悲しみの極限を見る。

(シミルボン 2016.12)

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