【14】弱さの中で生きるためのシステム構築(ラ・ロシュフコー『箴言』16)

先日、というか昨日、スピノザの『神学政治論』からいくつかのフレーズを引用して、記事を一本書きました。
こちらです→【13】揺らいだときにこそ、足元を見つめ、欲望の声を聞け(スピノザ『神学政治論』第20章)

同記事で行なった引用の中には、いくつもいくつも優れた人間観察が見え隠れしていたと思われます。

中でも私が昔から気にかけているフレーズは、第20章第4節の、以下の部分です。

実に、一般人については言うに及ばず、最も老練な者でさえも黙っていることはできないのである。このこと、つまり黙っていなければならないときに自らの考えたことを他人に打ち明けてしまうというのは、人間に共通の欠陥である。

最も賢い人間であっても、黙っていなくてはならないときでも、人間は自分の考えを胸の内に比しておけるわけではなく、どうしても喋ってしまう。そうした人間の弱さを正確に見抜いているようなフレーズです。言い間違いや、ポロっと口から出た言葉、というものが前提されているかどうかはともかく、人間は平素考えていることを黙ってはいられない。言論を弾圧する政治体制というものが極めて暴力的なものとしてスピノザの目に映るのは、そうした体制が、避けがたい人間の弱さを突くものだからでしょう。

ほとんど同じ時代、地理的に少し離れ、宗教的・政治的状況の大きく異なるフランスにあっても、似たような人間の傾向を見抜いた作家がいました。いわゆるモラリストとして知られる、ラ・ロシュフコーのことです。
彼はその『箴言』の中で次のように述べています。

我々自身が胸の内に秘密をとどめおけなかったとして、一体どのようにして他人がその秘密を守ることを望めようか。(La Rochefoucauld, Maximes, 16)

少し言葉を補いながら説明するなら、このフレーズはまず修辞疑問(反語)の形式をとっている、ということを確認しておいてよいでしょう。つまり、「どのようにして」望めるかを真剣に問うているわけではなく、「望むなんておかしいよね」と言っているのです。言い足すなら、自分自身で秘密をどうしても打ち明けてしまうとすれば、そうして秘密を分かち持つことになった相手が秘密を漏らすのはいっそう無理からぬことであって、彼が秘密を漏らさずに黙っていてくれるなどと考えるのはおかしい、と皮肉を言っているのです。

私たちは秘密というものを持っていて、他人に中途半端にバラしつつ日常の実践を成立させています。私たちは「これは秘密だよ」と、「秘密だから誰にも言うなよ」と前置きして、言わなくてもいいことをわざわざ言います。たとえばビジネス上の必要やもっと別の利益を念頭に置きながら、秘密というものを人間関係の潤滑油として使う人もいるでしょう。内緒話は共犯関係を成立させ、共犯関係は本当に独特の絆を生むものですから、きっとこの先もなくならないでしょう。ラ・ロシュフコーの『箴言』を読んだ人だって、読んだ瞬間にくすりとしたり、神妙な顔でうなずいたりするかもしれませんが、その人が実際に秘密をバラさずに生活していけるかといえば、それは疑わしいと言わざるをえません。このように私たちは、広めてはいけない秘密を自らバラして、剰えバラした相手が秘密を守ってくれるだろうと望みさえする。実に滑稽な振る舞いと言えますが、よくわかる、いかにもありそうなことです。その意味で、ラ・ロシュフコーの言葉は、現代にも妥当する、あるいは変わらぬ人間のありかたを簡潔かつ適切に喝破した、卓抜な表現だったと思われます。

語学的な、また訳のレヴェルを無視するなら、このフレーズはもちろん多様な解釈を許容するものですし、唯一無二の解釈というものはないと言っても過言ではないでしょう。
しかし確実だと思われるのは、このフレーズがスピノザから先ほど引用したものと同じように、人間の弱さ、黙ってはいられない弱さというものを前提しているということです。この箴言はさらに別の弱さをも想定していいます。自分で黙っていられないくせに、他人は黙ってくれるなどという甘い期待を持ってしまう、そうした弱さが前提されているはずです。さらにそもそも自分の弱さにさえ気づかない、反省能力の弱さをあざ笑うものでもあるはずです。

(なお、裏面の記述として申し上げるなら、私の主張は次の通りです。つまり、「それでも相手は裏切らないだろうと期待して秘密を打ち明けるのだ、それこそが相手に対する、友に対する最大の信頼の表現になるのだ」。)


形式という点で、スピノザの記述が一貫した論述の中の一部を成しているのと比べて、ラ・ロシュフコーの『箴言』が興味深いのは、断片を束ねて編まれたものだということです。
断片を複数、あるいは大量に読みつけていくことで、その中の一般的な傾向や、こう言ってよければ、思想を読み取ることは可能だと思いますし、それはもちろん、ある種の文学研究者の仕事であるとも思われます。しかし、断片は断片として切り離されているぶん、長く連ねられた記述からフレーズを切り出して利用する場合よりも、利用する(教訓を気ままに引き出す)にあたって、ある意味での罪悪感を感じることが少なくなります。
寧ろ断片という形式の側に、読み手の思考をいとも容易く触発する機能が備わっているのかもしれません。
論文において、それぞれの文は論文を構成する要素です。言い換えれば全体なしには部分はありえず、本当は全体を読むなければ部分の価値もわかりづらい。全体を読むと言う作業は長さや難しさにもよりますが、ある種自分を無化することを要する。しぜん、読んでいくうちに、自分の立場をよくも悪くも失うことになる。   
これに対して、断片という形式は、さしあたってよく理解できなくても、丸飲みしやすい。丸薬のように、噛み砕かれたら苦いので吐き出されてしまうけれど、丸ごと飲めば徐々にきいてくる(cf.ホッブズ『リヴァイアサン』32)。じわじわきいてくれば、自分の立場を思い出して、その薬効を利用することができる。はぐらかしているような感が否めないので直截に書きますが、断片という形式をとると、本文に沿って考えると言うよりは、本文から出発して考えるということがやりやすくなる、ないしは、読者をしてたやすく彼固有の思索へと導くことができる。引用したフレーズを含む断片からなる『箴言』という著作のひとつの力、ないしは重要な価値として、我々の前に立ちあらわれうるのだと思います。


フレーズもう一度引用します。

我々自身が胸の内に秘密をとどめおけなかったとして、一体どのようにして他人がその秘密を守ることを望めようか。(La Rochefoucauld, Maximes, 16)

このフレーズから我々は何を引き出すことができるでしょうか。

スピノザは人間の弱さ・欠陥を不可避なものとして前提しつつ、これにあわせたかたちで妥当な国家のありかたを見定めようとしました。つまり、黙っていられないという人間の弱さは、克服すべきものとして提示されているわけではなく、寧ろ所与として受け入れられています。
ロシュフコーの言葉もまた、人間の弱さ、あるいは愚かしさを、矯正せよとは言いません。「秘密をバラすな」という主張があるとも思われません。そうした意図を読み取ってもよいとは思いますが、果たしてそれが彼の意図であるようには思われませんし、別に彼の意図がどうであれ、私にはそうは思われません。

人間にほとんど内在していると言ってよい欠陥をあえて指摘する記述を利用できるとすれば、我々ができるのは、そうした欠陥を直接的に埋めることよりは、そうした欠陥を意識のふるいにかけたうえで、果たしてどのような防波堤を建てうるかということでしょう。

教訓を引っ張ってくるための第一の橋頭堡は、「まずもって人間の弱さ(しょうもなさ)を自覚せよ」という点に尽きます。
韓愈『原毀』にある極めて有名な言葉、「彼人也予人也」(かれはひとなり、われもひとなり)とはもちろん、同じ人間であるからには私も彼のように偉大な人間になれるだろう、という前向きな意識を前提した言葉ですが、この言葉は後ろ向きに、ネガティヴに、予防的に理解できるのはないか、ということでもあります。彼は人に過ぎず、私も人に過ぎず、それゆえどちらも弱く醜い。あまりにも弱く醜い。
ラ・ロシュフコーの例に即して言うのであれば、自分は秘密を打ち明けてしまうかもしれない。打ち明けつつ、相手は秘密を守ってくれるだろうという甘い期待を持ってしまう、それほどに弱いかもしれない。それは、目の前にいる相手もまた、自分が託した秘密を露見させてしまうような弱い魂を持っているかもしれない。
もちろん秘密の例にとどまりません。人間は弱い。期限通りに事務作業をやってくれるとは限らない(書いていて我ながら苦しいものです!)。すぐに裏切ってしまう。心変わりしてしまう。やりたいはずの仕事があるのに怠けてしまう。試験前に掃除に勤しんでしまう。……こうした弱さは骨絡みのもので、ときにはほとんど克服しがたい、抗えないものもある。
……であれば、初めから人間の気高さとか、正しさとか、美徳とかには期待しないほうがよい。中途半端にラ・ロシュフコーの例に戻るならば、コミュニケーションということを念頭に置いたとき、必然的に弱さに呪われた人間たちと関係の中でやっていても決して大打撃を受けないようなシステムを作っておく必要がある。そうは言えないでしょうか。


人間というものは倫理的にも経済的にも完全ではなく、完全ではない振る舞いをしてしまう。だから、相手が倫理的な振る舞いをしない時にも、むやみやたらに腹を立てるのではなく(怒りはある場面では大切ですが、役に立つ機会は少ないでしょう)、寧ろ相手に正しい振る舞いを求めてきた自分の態度や環境のほうを反省し、次に生かすことの方が大切であるように思われるのです。実態はともかく、方法的に自分のせいだと思ってみて、自分の責任において改善を図るということです。
もちろん人間全般が、つまり自分や他人が弱い存在であるということを自覚したところで、その弱さそのものを認めて何もしないとすれば、それは精神的堕落でしかありませんし、自分の弱さそのものを克服する作業は、やはり長期的に見て必要になるでしょう。
しかし、他人を変えるのは(自分を変える以上に)難しいし、変わりたがらない人も多い。変えようとすればいらぬ軋轢を生む恐れもある。
であれば、自分を相手にするにせよ他人を相手にするにせよ、人間というものがあらゆる意味で弱い存在であるということを(さしあたって)変更しがたい前提として念頭に置き、日常の振る舞いを反省しつつ、自分が成果をあげやすいシステム・環境を整えていくことが必要であるように思われるのです。
そうして構築される自分のシステムは、自他の弱さが深刻な帰結を招来することのない予防策に満ちた場所であり、深刻すぎる弱さや自分と合わない弱さを持った人間が入ってくるのを防ぐ有刺鉄線を持った場所となるでしょう。


さてシステムというと複雑な印象をあたえるかもしれませんが、小さな小さな(?)環境のことと考えてみても良いでしょう。

システム・環境の構築というのは、古来人間がやってきたことでもあります。
おおざっぱな理解でよけれぱ、人間の身体能力はとても高いというわけではない。荒野やジャングルに放置されれば死んでしまう。
雨に濡れたら風邪を引くから、屋根をつくる。
肉は一度に食べきれないし、腐ると食べられないから、保存の技術や場所をつくる。
火がないと夜に動物に襲われかねないから、火を絶やさない仕組みをつくる。

私たちはもちろん、無意識のうちにシステムの恩恵を受けています。それらは、必要から生まれた発明とも言えるでしょう。
同じように、何か自分に特有の問題や課題があるのなら、もちろん出てきた問題について場当たり的に対処することは必要になるはずですが、同時に、問題をそもそも解消する・発生する前に抹殺する・発生しても自動的に対処する独自のシステムを適切に作ることは、やはり必要になるでしょう
たとえば厄介な客をあらかじめ排除する構造を作っておけば、商売はやりやすくなるでしょう。
たとえば夜にインターネットを彷徨ってしまって眠りの質が低くなるというのなら、インターネットが夜間に遮断されるように環境をととのえるべきでしょう。
秘密の例に戻るなら、あくまでもたとえばの話ですが、ばらしたくなる・しかしばらしても大したことのない内容を多くストックしておけば、口が滑っても危険はちいさくなるかもしれません。相手に知られてはいないという意味で秘密でありつつ、しかし秘匿せねばならないものではない情報を多く持っておくということです。

……もちろん、具体例は具体例に過ぎません。各人には固有の文脈や問題がありますから、結局は自分でシステムを作るほかありません。
とはいえ、人間は弱く、その弱さはときに克服困難だから、弱くてもやっていけるように適切なシステムを構築したほうがよい、ということは、少なくとも確実だと言えないでしょうか。


……今回引き出している教訓はごく簡単でしょう。ほとんど言い直すことになります。

人間は様々な意味で弱い。自分も他人も弱い。そうした弱さをはっきり意識しなおしたうえで、自らの行いや、自らが置かれた環境を反省し、(他者にも直接的に関わるという観点からいえば)弱さが深刻な帰結を招来しないような環境のほうを構築してゆくことが大切ではないか。……ということです。