【13】揺らいだときにこそ、足元を見つめ、欲望の声を聞け(スピノザ『神学政治論』第20章)

あなたは身体を持っています。

……と言われても、はいそうですね、ということになるのが当然でしょう。
しかし当然のことを当然のように確認するということは、当然のように生きていてはなかなか難しいぶん、極めて重要であるように思われます。
皆さんは歩いているときや鉛筆で文字を書いているとき、あるいはパソコンの画面に向かってキーボードに手を置いて文字を打っているときに、自分が体を持っていることをはっきりと意識するでしょうか。
あまり意識する人はいないと思います。
もちろん初めてパソコンに触れたとか、初めてあるゲーム機に触ったとかいう場合は、どうにも体がなじまない感じがして、自分の体の存在を意識せざるをえないかもしれません。あるいは病気になってどうしても体が重いとか、痛みがひどくて動けないとかいうときには、たしかに体が抵抗ないしは障害として立ち現れるでしょう。しかし普段、あまり体がある自分には体のこれこれこういった部分が存在しているということを意識する機会はあまり多くないのではないでしょうか。
つまり当たり前にある体というものは、体がスムーズに動かない時にこそ意識されるということです。

同じようなことは、漠然と我々が持っているように思われる、自由ということについても言えるのかもしれません。
我々は聞かれれば自分が自由だと答えるのでしょうが、普段から「ああ自分は自由なのだなあ」と思って生きている人は少ないのではないか、ということです。自分が自由であったことを知るのは、自分が何らか不自由な環境に置かれた時だと考えられます。言い換えれば、自由は自由が奪われたときに見いだされることが多いのではないか、ということです。

個人的な例でいえば、最近の外出禁止令によって、私は外出する自由をかつて持っていたのだということに改めて気がつきました。
私はマイルドな引きこもりなので、普段それほど外出する機会は多くありません。なので、禁止されてみても大丈夫だろうなと漠然と思っていたのですが、いざ禁止されてみると、精神にわずかな、しかし無視しがたいおもりがのしかかったような心持ちになるのです。
一定の情報をこちらでも収集するとはいえ、違反者には暴力装置(端的に言って警察)による処罰がありますし、専門家が立案した以上は妥当な措置として信じて従うのがよいはずだと考えて従っており、特に反対意見を持っているわけではまったくありませんが、持っていたはずの自由を奪われたという感覚が、ビーチサンダルを履いた指にまとわりつく砂のように、なかなか拭い去れない。

このように、当然のように持っているものは、普段我々の意識から抜け落ちてしまっており、いわば機械の一部のようにしぜんに受け入れられてしまっているのですが、そういったものが不調を来すとき、危機に立たされるとき、我々の意識は少しだけ敏感になって、そうしたものが今は失われている、というかたちで、意識に(しつこく!)立ち現れるのです。


さて、哲学史上、自由というものは(用いられる語彙こそ変化しますが)頻繁に問題にされます。そしてやはり、制約が加えられている場面に関する考察なしに、制約がない状態としての自由を構想するのは困難なことでしょう。その一例としての思想や言論の自由といったものもまた、かかる自由が危機に立たされた時にこそ、より簡単に言えば政治体制が特定の思想や言論を封殺しようとする場合にこそ、明確に必要性を発見され、認識され、確証されてきた観念ではないでしょうか。

17世紀に世界の物流を握り、覇権国家として君臨したオランダおいては特に、宗教と政治のあいだの「対立」と片付けるには複雑に過ぎる状況に、哲学の著しい発展が加わり、歴史上特異な知的環境がはぐくまれていました。その内部では闊達な議論が行われましたが、とりわけデカルトに由来する、或る種根本的にものごとを考える傾向は、他方で(改革派とはいえ)既存の宗教に対しても、また宗教と分かちがたく結びついた政治に対しても一石を投じるものでした。
こうした状況の中、言論の自由そのものが一個のトポス、ないしは磁場として、多様な問題系やテクストを呼び込み、膨らんでいきます。この文脈における極めて重要な書物のひとつが、匿名で出版された、スピノザの『神学政治論』でした。
『神学政治論』の話題は非常に多岐にわたりますが、以下の(省略を除いた完全な)タイトルからも分かる通り、目的の核は、政治的・宗教的な安定と「哲学する自由」が両立可能であることを証明することです。

哲学する自由が健全なる敬虔及び国家の平和により寛恕されうるどころか、寧ろかかる自由が排除される際には国家の平和と当の敬虔もともに排除されるほかない、ということを示す若干の論文を内容として含む、神学政治論(Spinoza, Tractatus theologico-politicus, titulus [=éd. F. Akkerman, Paris, Presses Universitaires de France, 2e éd., 2012 (1ère éd., 1999), p.54. 以下TTPと略し、章節とページのみ示す)

この「哲学する自由(libertas philosophandi)」は、岩波文庫の畠山訳では「思考の自由」と訳されており、これは内容上適切であると言えるでしょう。後の第20章などにおいて対応物が説明される際には、必ずしもphilosophareというテクニカルな装いを見せた動詞だけが用いられるわけではありません(dicere「言う」、docere「教える」、loqui「話す」、sentire「考える(判断する)」等の動詞も合せて用いられます)。

大まかに言えばこの書物は、預言の伝達の様態や、旧約聖書におけるヘブライ人の国家のありかたなどを考察することを通じ、国家が言論の自由・思想の自由というものを保証すべきである、という結論を提示するものです。スピノザがなす一連の思索は、特に最終章に当たる第20章において特にまとまったかたちで提示されます。その第20章のタイトルというものが、「自由な国家においては、各々が考えたいことを考え、考えることを言うことが許される」というものです。「哲学する自由」は、宗教の教義に反する内容を講ずる自由でもあり、無論為政者を糾弾する言説をなす自由でもあります(特に前者につき、簡単に言うなら、スピノザは、ヘブライ語による旧約テクストの解釈や、啓示を受けた者たちの知的能力が限定されていた可能性を考慮する作業を踏まえ、聖書の教えを愛と正義という2点に還元することで、他の点に関する記述が懐疑にかけられる可能性を認める、ということになります)。

スピノザの人間心理に関する分析は、どこをとっても卓越したものであると考えられ、その一つ一つを見ることはもちろんできないのですが、ここでは部分的にいくつかのフレーズを見ることで、その分析の鋭さというものを瞥見することが許されるでしょう。

仮に精神に命令することが(肉体的な声を発する部分としての)舌に命令する(imperare)のと同じくらいに容易かったなら、どのような者であっても安全に統治を行っていただろうし、暴力的な支配(imperium)もなかっただろう。蓋し、そうした状況であれば、誰しも支配者たちの思うところに即して生活し、彼らの布告のみに基づいて、何が真で何が偽であるか、何が善で何が悪であるか、何が公正で何が不正であるか、を判断しただろうから。(TTP, 20, 1, p.632)

つまりここで言われているのは、精神に対する命令はできない、ということです。仮に精神さえも統治できる、つまり被治者の考えを統治者が自由に決められるのだとすれば、被治者は不穏な言説を紡ぐことも、反乱を企てることもないから、統治は危険に晒されることがなく、統治者は暴力を振るう必要もない。しかしこうした仮定が成立しない、つまり精神が根本的に自由にはたらいているからこそ、不穏な言論が生じうるし、究極的には反乱がありうる。そこで統治者は、ときに「舌に命令する(linguis imperare)」つまり言論を封殺する必要を感じていたのです。
政治権力は決して個々人の内面に触れることができない。内面で思惟が形成され、思惟が言葉によって伝達され、擾乱に結びつく危険がある以上は、国家が先んじて言葉のレヴェルで危険を遮断することが、つまり言論を封殺することが、平和を維持するための理にかなった方針に見えるかもしれません。寧ろ言論を自由にしておくことのほうが酸鼻を極める帰結を招来するかもしれない、という恐れさえ生じうるでしょう。しかしスピノザは、そうした体制が言論に制約を加える、あるいはさらに進んで、反抗的な市民に対して過敏に暴力的な対応をとることは、主権者にとって決して有益ではない、といいます。

いくら主権者が全てに対して権利(jus)を有し、正しさ(jus)と敬虔に関する解釈者を自認しようとも、彼は人間がなんであれ物事に関して自らの思うところに即して判断を行うことを、彼らがその限りであれやこれやの情動を抱くのを、妨げることは決してできないだろう。主権者が何かにつけて決して自らに賛同しない者を敵と看做すことが適法である(jure posse [...] habere)、というのは正しいにせよ、我々は主権者の権利についてではなく、彼にとって有用な(utile)ことについて論じているのである。というのも、私は主権者が暴力的に統治し市民を極めて軽微な罪状で処刑することが適法であると認めるが、誰しもこのような決定が健康な理性の健全な判断によってなされうるとは言わないだろう。寧ろ、支配全体を大いなる危機に晒すことなしにはこのような決定をなしえないのだから(…)。(TTP, 20, 3, p.634)

大まかに言えば、スピノザは、先程みたような仕方で主権者が言論を封殺し、厳しい態度で市民に対応することを、正当なことと見ています。しかし同時に、こうした法的に正当といえる対応は、極端なものになった場合、誰にも認められないものになる、と言っています。後者の水準での承認は、なるほど法-権利(jus)上のものではないにせよ、民の服従を得られなくなる、というのは為政者にとり致命的であり、支配を揺るがしかねない。裏を返せばスピノザは、民が服従しつづけるように、民が過剰な反抗に踏み出さないように、という有用な(utile)観点から、言論の自由を確保する必要を主張しているのです。
続く節では、人間がそもそも(自由に)考えてしまうもので、考えたことを黙っていられないという、或る種の弱さが説明されます。言い換えれば、言論を封殺する国家は、こうした拭い去り難い弱さを突いた、暴力的なものであるということになります。逆に、言論を自由にする国家は、人間の本性的な弱さを考慮した、節度あるものとされるでしょう。

判断し、考えたいものを考える自由を捨てることは誰にもできず、寧ろ誰しも、最大の自然権によって自らの思惟の主人であるからには、国家においては、人々が違った、また反対するような内容を考えているというのに、主権者の命令によらねば語れないようにしようと試みれば、極めて不幸な帰結が生じるばかりである。実に、一般人については言うに及ばず、最も老練な者でさえも黙っていることはできないのである。このこと、つまり黙っていなければならないときに自らの考えたことを他人に打ち明けてしまうというのは、人間に共通の欠陥である。それゆえ、考えたことを言い教える自由が各人に与えられない支配は極めて暴力的ということになり、これに対してかかる自由が各人に与えられる支配は、節度あるものということになる。(TTP, 20, 4, pp.634-636)

では言論の自由を保護しない場合、国家と言うものはどうなるのでしょうか。スピノザの見解は悲観的です。

とはいえ、この(考えたことを言い、教える)自由を抑圧し、主権者からの要求なしには一言も発さないように人々を押さえつけることはできる。そうしたところで、主権者が求めるもののみを考えるという事態までも生じるということは決してない。それゆえ必然的に招来される帰結は次のものである。人々は日常的にあることを考え、それとは別のことを話す。それゆえ、国家において極めて必要性の高い、信義というものが破壊され、唾棄すべき媚び諂いと裏切りが猖獗を極め、それゆえ権謀術数が生じあらゆる善き学芸が壊滅する。(TTP, 20, 11, pp.642-644)

強固に言論を封じこめる方針をとる場合、民は見かけ上従うことになるかもしれません。反発すれば一定の制裁を受ける、ということなら、当然です。しかし反乱を抑え込み、平和を得るとしても、それは仮初のものにすぎません。言論を封じ込めることはできても、内心を封じ込めることはできず、以って内心と外的な発言が食い違うことになる。それはとりもなおさず、スピノザが重視する「信義」を崩壊させ、そして阿諛追従と背信の流行を招くことになるのです。
とはいえスピノザの分析はここでは止まりません。やはり精神は自由であり、このように抑圧されてこそ、人間の精神はより強固に自由を求め、以って権力に抵抗するようになる、という彼の言は、実にリアリティのあるものです。直前の引用に続けて、スピノザは補足しています。

しかし実のところ、それがなされうるには、つまりあらゆる者が既定の限界の中で話すようになるには、多くのものが足りない。寧ろこれに対して、話す自由を人々から奪い取るよう配慮が尽くされるほど、人は一層熱心にそれを求める(…)。(TTP, 20, 11, pp.644)

これはまさに、障害があるときにこそ自由が意識され、またその自由が求められる、という、最初に触れたような事態と同様の内容を言い当てているものと言えるのではないでしょうか。


ここで私は別段、ごく素朴な意味における政治と思想の関係について議論をしたいわけではありません。

現在の政治(というか立法と行政)に関する議論というものは非常な注意を要しますし、専門家でもない人間がいたずらに議論に立ち入るのは、非常な危険を伴うことであると考えています。(その危険を冒すことで得られる果実が大きいと感じられるなら、言及しても良いとは思いますが……)

私が考えてみたいのは、この国家と個人の思想・言論の自由というものの対立を見ているスピノザのテクストを、別の場面に応用できないかということです。正しい読み、スピノザを論理的に整合的に読むこと、は、さしあたって私の関心ではありません。(無論、この作業の前提として、スピノザをなにはともあれ読む努力はしています。)
何をしてみたいかと言うと、国家が人間の思想に対して(スピノザの目からみれば、不適切にも)統制を加えるのと同じように、人間は知らず知らずのうちに受け入れている法ないしは固定観念によって、自ら気づいていないような、しかし黙ってはいられない欲望を圧殺してはいないか、ということであります。つまりスピノザが見た国家と人間の関係を、一個の人間の内部に、一定程度見出しえないかということです

人間が何の制約もなしに自分のやりたいことをやりたいことをやる(これも極めて素朴な言い方ですが。ともあれ人間に何も制約がないという状態があるということを仮想して下さい)場合、社会というものはたちゆかないでしょう。
極めて単純な考え方かもしれませんが。人間は何も禁じられていなければ社会を作れません。というよりも。ジョルジュ・バタイユの発想を借りるのであれば、禁止の体系こそが人間性の重要な部分を形作っているのです(同時に侵犯のモメントも人間においては不可欠ですが)。ですから、人間がある種の法、ある種の禁止を内面化して、自らの動物的と言ってよい傾向性を圧殺することは、ごく当然のことであり、なくてはならないことでもあります。

反面、より表層的な、もっと卑近なレベルに限って言えば、我々は受け入れる必要がない固定観念を受け入れて、必要がないのに、自分の身を苦しめているということはないでしょうか。
例えば、「私はこの業界でしか生きていけないから」とか、「もう年を食ってしまったから」というかたちで、自分の可能性というものをほとんど何の根拠もないままに制限してしまい、以って自分の人生の可能性を著しく狭めているということはないでしょうか。
もちろんそれは、健全に生きていくためには一定程度必要な態度かもしれません。例えば人間が自分の腕を動かして空を飛ぶことは、おそらく当分ありえないでしょう。そんなことを望んでも無理だというのは明らかかと思われます。あるいは、人間が鋭い爪で動物を捕まえ、牙で皮と肉を割いて食べるような生活を送ることもできない、ということもまた明確であるように思われます。
ここまで極端なことでなくても、選択肢が多いと人間は混乱します。ですから、あらかじめ限られた数の選択肢のみを考慮に入れることは、一定の生存戦略として有効であると言えます。

しかし、たとえば経済的社会的な意味で自分の置かれた状況や、このままいけば自分を待ち受けているであろう将来に合わせて、自分の可能性を縮減するようなものの見方は、何ら利益をもたらさないように思われるのです
もちろん、こうした抑圧と逓減の物語を生きていくことが、自分の深い欲望に合致するという可能性もないわけではありません。人間は皆が皆心にゆとりを持って・確信を持って生きていくことを(深いところで)望んでいるとは限らないからです。苦しみながら生きることが(目に見える・確信される不満とは裏腹に)欲望に合致しているということはありえなくはないはずです。
(我々は自分が「これを欲しい」と確信しているものを欲しているわけではない、心の底から欲望しているわけではないということを前提しています。というのは、別の記事でも繰り返し述べてきましたが、人間は自分が何を欲しているかということには気づかずに生きているもので、欲望の姿に関しては、せいぜい漸近していくことしかできないからです。)
とはいえ、現状に何らか漠然たる不満があって苦しんでいる時に、その原因が我が身に課してしまっている法ないしは固定観念と、自分が隠し持っているはずの欲望との緊張に求められる、ということは考えられないでしょうか。実際、一定の固定観念を持ったまま閉じこもってしまうと、固定観念の下でしか物事を考えられなくなる、ということはよくある話です
たとえば、本当に認めたくないことですが、或る種の理系研究者は人文系の学問が不要だと言ってはばからない(いったい「必要」だとか「有益」だとかいう語が何を意味するのか、考えたことがあるのでしょうか?)。他方で哲学研究者が、何の知識もないのに、量子力学を曲解して(理解できたと思いこんで)おかしな非難を行なったりする。沈黙するということができず、自分のいるところから全てを裁けると思い込んでいることがある。(私は糾弾されるのも扇動してしまうのも嫌なので、専門としない分野については初めから専門性が求められる媒体では言及しませんし、言及するにしても「これは正確でない可能性があります」とエクスキューズを立てておきます。エクスキューズをぶっちぎって何か言ってくる人がいたら、「ご理解いただけなくて残念です」と言うほかありません……)

ですから、今自分が置かれている状況に完全に満足しているわけではない、あるいは漠たる不満を抱えているのであれば、自分を縛っている制約条件・固定観念がないか、一歩引いて確かめてみることは、極めて有用であるように思われます

ただし人間には、自分の置かれた、自分を縛っている言葉を外に立って俯瞰することは極めて難しい。
だからこそ、外に出て人と話すことが大切です。対面で話し合っても良いですし、本を読む(疑似的に他人と話す)ということでもよい。例えば、哲学書を読むという場合にも、他の人と話し合いながら議論を進めたほうが、自分が無意識のうちに前提している、ときに誤った読み方を排除する機会を得られるというものです。


さてここまででは主に、自分を知らず識らずのうちに縛っている制約条件を客観視することの側から見ましたが、心の中にあって自分でも気づいていないような欲望に関しても、やはり一度は(否、本当は常に)考えてみることが大切であるとも思えます。なによりも、行動を見直す指針になるからです。

そもそも、おそらく心のどこかにある欲望は黙ってはいない。人が黙らねばならないときにも自ら考えを話さずにはいられないように、きっと言葉や態度に何らかのかたちで現れる。あるいは人との関係において気づかれることがある、本を読む中で掴み取られることもある。
そして欲望に対しては比喩的な意味で検閲がありうるはずです。現代の国家と人間の関係においてはともかく、一個の人間の精神においてはほぼ確実に、経済的社会的条件による検閲とともに、これとは決して無関係ではありえない、上に見たような心理的条件による検閲もありうるでしょう。
(深入りしたくないので関係がないことにしておきますが、「検閲」は精神分析においても用いられる語で、抑圧されたものが意識に上ってくるところではたらく機能です。)

漠然たる不安を覚えた瞬間、何かが揺らいだ瞬間には、自分でも気づいていない何かが声を上げている。その声は完全に無視して良いようなものではない。寧ろ、そうして揺らいだ機会を生かして、「自分の欲望はこっちに行けば満たされるかもしれない」などと考えて、やってみる。そうした作業を行なってみるのもよいのではないでしょうか。

もちろん、繰り返すなら、どうしても声を上げる欲望の願いを聞きいれることが必ず幸福に結びつく、ということは保証されません。
自分の言葉や態度を吟味することで、あるいは他の人との関係の中で掘り起こされ、依然ヴェールの向こうにあるとはいえ、シルエットくらいは見えた欲望を満たすことは、なんら世俗的な利益をもたらさないかもしれませんし、確信を持った満足をもたらすものかどうかはわかりません。
しかし、新たに聞こえてくる欲望の声に従うことで、問題の根に近づくきっかけは得られるはずです。



特に(個人的には)冒頭の話との関連が重要です。なぜなら、何らかの不満があるということは、外界に対する不満があるということを意味するにせよ、それはおそらく同じくらいに、(気づかぬうちに持っていた)自分の価値観が揺さぶられ、(やはり気づかれていない)欲望が不満を表明している証拠でもある、と考えることができるからです。
スピノザにあっては権力vs.言論の自由というかたちで図式が比較的明確だった(というより、私が勝手に明確にした)ところ、自分で課している法(言いたければ超自我と言っても構いません)や欲望という、本人にさえ見えづらいかもしれない要素をわざわざ持ち出したことで、やや議論は錯綜していますが、簡単に述べるなら、

少なくとも現状に漠たる不満があるならば、ある意味でそれは好機である。そうした場合、
1.足元=自分を縛っている制約条件に対して意識を向ける(おそらくは他者との関係の中で!)
2.自分の欲望に敏感になること(おそらくは他者との関係の中で!)
ことで、価値観や行動方針を点検することができる。このことでもたらされる価値は幾分大きいものではないか。

ということです。

もちろんこの「価値」が極めて前向きな効果をもたらすものであるかはわかりませんが、自らを知るという意味である種の真理に漸近し、少なくとも精神的制約から自由になることを肯定的な価値として認めるのであれば、この作業は間違いなく有効で「役に立つ」と言えるでしょう。


以上、スピノザというビッグネームから極めて恣意的に物事を読み取ってみる試みでした。
『エチカ』の取り付く島もない印象とは幾分異なる、人間の観察者としての魅力あるスピノザの側面を紹介できたとすれば、望外の喜びです。

amazonリンクは以下。

—スピノザ『神学・政治論』上下
上巻
下巻

—特に参考になる邦語文献として、以下。
福岡安都子『国家・教会・自由 スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗』
(増補版が2020年5月に出版されるようです)

上野修『スピノザ『神学政治論』を読む』