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【279】世界が表情を変えるのは、いついかなるときか

「世界が表情を変える」のはいつかと問われれば、ある種の人々は「愛されたいと願ってしまった」ときである、と答えそうなものですが、それはともかく、世界はいつ私たちに対して自らの見え方を変化させるのかわかったものではありません。

つい先日、というほど最近ではありませんが、そんなことがあったことが、今になって思い出されますので、そのことについて書いてみたいと思います。

※この記事は、フランス在住、西洋思想史専攻の大学院生が毎日書く、地味で堅実な、それゆえ波及効果の高い、あらゆる知的分野の実践に活かせる内容をまとめたもののうちのひとつです。流読されるも熟読されるも、お好きにご利用ください。

※記事の【まとめ】は一番下にありますので、サクっと知りたい方は、スクロールしてみてください。


竹田千愛というフィクション上の登場人物については、数ヶ月前に幾度か書いたことと思います。

野村美月『文学少女』シリーズの第1巻の主要なキャラクターとして現れる竹田千愛は、自分が人に対する愛も慈しみも喜びも悲しみも分からない無感動な人間であり、必死で演技をしつづけなければ生きていけないということに絶望して、第1巻の終わりには自殺未遂を犯します。

結局その自殺は成功せずに終わりますが、かといって無感動な精神が、あるいはそのことに絶望する態度は保持しつづけるわけで、作品の本編が終わるまでずっとそうです。

作品が一通り完結した後に公表された短編集のひとつは、その事件の数年後のことを描いたものですが、その巻で竹田千愛は、あるかたちで謂わば世界と和解します。

これはこれで極めて複雑な和解の仕方であって、読解の余地を残すところではありますが、そこについては今回は触れないことにします。

ともかく私にとって衝撃的だったのは、この世界との和解の所作、つまり自分が無感動で、そのことに絶望して死にたいと思っていた人間が、どうにか生きていくためのよすがを見つけたことについて、作者があとがきの中で「ずいぶん大人になりましたね」という感想を述べたことなのですね。

もちろん作者からしてみれば、登場人物というのは自分の統御のもとにはない存在です。キャラクターがある程度固まってくれば、シナリオというものは自走するわけですし、登場人物も自分勝手に動き回るわけですから、作者がある突き放した感想を登場人物に対して持つのは別に良いのです。

が、私にとって何が衝撃だったかといえば、作者が、竹田千愛のパーソナリティを、大人でない、子供のそれと認識して、謂わば成長すれば失われるであろうものとして軽んじていた、ということです。つまり、悲しむことも愛することも慈しむこともできずに、ひたすら何かを楽しいと思ったり悲しいと思ったり愛していたりするふりをしつづけている、演技をしつづけている、そして演技をしつづけている自分に気付いていてそのことに絶望している、そうした心の持ち方を、子供のそれだと切って捨てたわけですね。

私は、作者がそう認識していたということにこそほのかな絶望を覚えました。

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ところが数ヶ月前に、まあ色々な作品を読みなおしながら思われたのは、作者の見立てももっともであるな、ということでした。竹田千愛というキャラクターのパーソナリティに対する見方が一変したわけです。

ある一定以上の反省的な精神を持つ人間であれば、自分が楽しんでいるのか、自分が愛しているのか、自分が喜んでいるのか、自分が悲しんでいるのかということに対する再帰的な問いは欠かすことがないのであり、その限りで竹田千愛は、普通以上には反省能力があったといえるにせよ、自分が演技をしているということをあまりにも重く捉えすぎていたのではないか、という気がするわけですね。

人は誰しも他人の前で演技はするものですし、目の前の人に応じて態度を変えるということは誰でもやっているわけです。それは良くない、と言う人もいるかもしれませんが、極めて空疎な建前です。誰だって、人に応じて態度を変えるわけです。

皆さんも、親に見せる顔と、恋人に見せる顔と、配偶者に見せる顔と、友人に見せる顔と、職場の上司に見せる顔は全然違うはずですし、そのことで咎められるいわれはないと思われるはずです。ひょっとすると誰にも見せない顔というものもあるかもしれませんし、おそらく普通はあるのでしょう。

竹田千愛は実に、その点に納得がいかず、強いて問題視して辛さを抱えていたのだ、という風に思い直されたわけですね。謂わば演技に慣れきってしまうことがひとつの「大人」の態度だとすれば、そうした態勢を身に着けていない竹田千愛は何であれ子供だった、ということです。

もちろん、「子供」であろうとなんであろうと真剣な辛さを抱えることはありうるわけですし(そして言うまでもなく、その辛さというものは、必ずしも自殺未遂という行為の深刻さによって計測されるべきものではありません)、現実であれば馬鹿にすることを許してはならない質のものだと思いますが、少なくとも自分が書いたフィクションであれば、或る種突き放した見方もできるというものです。

さて作中では、竹田千愛の感情に満ちたフリの演技を見抜き、指弾したという人物——其の名を斉藤静と言います——の話がありますが、そのように人の社交上の演技をわざわざ暴き出して指摘するものもまた子供の所作でしょう。

竹田千愛の演技を指弾した斉藤静は、やはり演技をしまくっている、見え透いた遠慮を振りまきながら生きている生活をしている周りの同級生たちの態度に納得がいかない少女でだったのかもしれません。

攻撃の矛先がまさに演技をしている自分に向いた千愛とは異なり、斉藤静の場合には演技をする外部を指弾したわけですが、とはいえ演技することに対する・演技というものが人間関係の中で行われていることに対する違和感を持っている、という点ではふたりとも子供だったのでしょう。

だからこそ、自然かつ闊達に演技を交わし合う同級生達の中にふたりとも心から溶け込むことができなかったところ、演技をしているということに否をつきつけるふたりは友人に、あるいは共犯になれた、つまり子供同士で固く手を繋ぐことができたのではないかとも思われたわけです。もちろんそれはあたたかな友情ではないにせよ。……

そうしてみると、世界と折り合うことへと希望を持てた竹田千愛の姿は、まさに「大人になりました」と作者に言われても仕方がないものだな、と思われるようになったというわけです。


どうしてこのような読みの転換が行われたかといえば、詳しく考えようと思うと恐らく5万字必要になるのでやめますが、『リズと青い鳥』という全く関係のないアニメ映画を、おそらくは100回以上観つづけたことによると思われます。

何十回目になるかわからない試聴の中で、ふとそんなものの見方が浮かんできたというわけですね。

『文学少女』の一部の巻と同じように、女子高校生の或る種の精神的生活を描いた物語ですから、何らか響きあうところはあったのかもしれません。なるほど、あたたかいばかりではない友情や、表現しえない・してはならない感情が重要な問題になっている点は、共通していると言えなくもないでしょう。とはいえ、一体どういった論理的な意味があってこうした読みの転換が行われたのか、ということを、私は詳細に説明することができません。おそらく誰にもできないことだと思われます。

ともあれ気付いたのは、何がきっかけになるかわからないけれども、自分の持っていた読み筋が転換されることが、世界の意味付けが変更されることが、世界が表情を変えることがありうる、ということであり、しかもその瞬間は突然に・明確な前触れなしにやってくるということです。

私たちが望もうと望むまいと、世界が表情を変える瞬間がある、ということです。

それは個人的なレベルでも、あるいはもっと大きなレベルでも、繰り返し訪れる瞬間でしょう。

世界への意味づけ、ないしは世界の持つ表情というものは、私たちの精神それ自体のありかたにほかなりませんから、そうした変化の瞬間というものは、ことによると破滅的なダメージを与える可能性もあるものです。とはいえ、そうした意味の転換・世界そのものの転回は、確実にどこかのタイミングでやってくることでしょう。

私たちができるのは、そのような転回が生じるということに対して一定の心構えを持っておくことであり、あるいはそのような転回をも楽しもうとする心持ちを養成しておくことであり、また自ら転回の起こりそうな方向へと突き進み続けることであるように思われます。

重要なのは、世界が表情を変えるときには、そうした準備がすべて裏切られるだろうということです。或る種の円環に囚われた意味付けと解釈の総体に亀裂を入れて綻ばせるのが、救済やカタストロフィなのですから。

■【まとめ】
世界の見え方が一変する瞬間は、予期せぬ仕方で、予期せぬときに訪れる。実にそうした意味の転換というものを待ち構え、あるいは心待ちにするということが、準備として必要であるように思われる。他方で、そうした準備や期待というものをも全て裏切る点にこそ、世界が表情を変えることの特質があるのだとも思われる。