【33】否定神学から始まるネガティヴな人びとの逆襲?

いきなり「ネガティヴ」な話題で始めるのは良くないことかもしれませんが、あえて言いますと、非常に前向きなことをプロフィールに書いたり、あるいは自らの発信する情報をポジティヴな喜びの表現に満たしていたりする人には、強い疑いを持たざるをえない、という人も一定数いるのではないでしょうか。
つまり、

「あいつは、自分がやる気にあふれているかのように言って大げさに振る舞っているが、あれは見せかけにすぎない、つまり本当はやりたくない、本当は金が欲しいと思っているだけで、あの熱意ややる気のように見えるものは方便ないし広告の類ではないか? 少なくとも、かなり大切な部分を隠した、不誠実な表現ではないか?」

……と思ってしまう、そういう人もいるのではないでしょうか。私がそういう類の人間なので、よくわかります。

寧ろ、そうであって欲しい、真っ直ぐなやる気の表現は嘘である、と思いたい面があるのです。
自分もときには、何かに対して物凄い熱意を持って取り組んでいるかのように見せかけることがあるけれども、本当のところはそうではない。やりたくないことは人生のうちにたくさん溢れていて、本当に命を賭してやりたいと思えるものはない。とはいえ力は有り余っている。そういった不完全燃焼の感があって、それを他人にも投影してしまう、あるいは投影したい、そうした気持ちがあるように思われるのです。

このようにやりたくないことはいっぱいあるけれども、やりたいと思えるほどのものはなく、現状は最悪でない選択をしてきた結果に過ぎないと思っている人は存外多いように思われます。それは主体性を欠いた「ネガティヴ」な態度かもしれませんが、而今はっきりと意識して採用することに決めるなら、悪い態度ではないと思われるのです。
それどころか、否定的な態度は人間にとってどこか本質的であるように思われるのですし、(自分の)欲望という捉えがたいものを相手にするなら、否定的な言明を積み重ねるほかないとも思われるのです。


この点を見るために、まず西洋思想史の伝統の内部にある否定神学というものを見ることは、時宜を得ないことではないように思われます。

否定神学とは、極めて大雑把に言えば、神という超越した、人間の言語では語りつくせないものについてどうにかして語るために、神は○○ではない、神は××ではないという否定的な言明を積み重ねる営みです。神をいわばその影の側から理解していくタイプの神学です。神という絵を、周りの地を明らかにすることで、どうにか少しでも理解しようとするタイプの神学と言えるでしょう。

このモデルというのは、先ほど申し上げたとおり、神が決定的に超越しているという極めて肯定的な観点から採用されているものです。つまり神が超越していて言語で語り尽くすことが絶対にできないからこそ、言語を用いてどうにか語り続けようとする。

少なくともこれは、人間の知性との限界をはっきりと見定めたうえで行われる、哲学的には極めて誠実な態度のひとつであると言えるのではないでしょうか。

神は〇〇であると断定的に言うことは、一応、できる。例えば聖書には、いくらでもそうした比喩が見てとられる。しかし概念を洗練させようと思うのであれば、つまり素朴な意味において哲学的な態度を保存しようとするのであれば、「否定的な」態度をとらざるをえない。否定を尽くすことで、その場しのぎのいい加減な肯定を行うよりもずっと深く、対象を知ることができる。そして彫琢された神の観念から、豊かな哲学の果実が多く生まれたことは言うまでもありません。


我々は目下、神がどうのこうのと論ずる立場にはありませんし、積極的に論じたいと思う人は、現代の日本人の中では非常に稀でしょう。

こうして神が後退したことで、また別の、肯定的に論じるのが難しい対象が前景化するように思われるのです。神と同じように捉えがたいもの、否定を積み重ねてゆくことでしか効果的に漸近することができないようなものがある。そのひとつが人間の欲望であると考えても、そこまでおかしなことにはならないでしょう。別に「無意識」でもなんでもよいけれど、「神」が我々にとって大した意味を持たなくなるとすれば、我々自身の方が寧ろ謎になるのです。

そうした欲望の捉えがたさは、欲望それ自体――そのようなものがあるとして、ですが――の側にも、また我々の(言語を介した)把握力の不十分さにも由来するのでしょう。そうして、もちろん他人の欲望だけではなくて、自分の欲望も、捉えがたいものです。

日常を生きていると、自分の選好について深く思いを致すことはあまりありません。けれどもふとした瞬間、時間が余った瞬間、あるいはもう少し豊かな生活をしたいと思って外の世界に首を出すと、たとえば「私は何を欲しているのだろう?」という、肯定的な答えを求める問いが、心の中で振り出されうる。そうして問うてはみても、しかし、何もとっかかりがない。過去に何かを手にしてきたのは事実かもしれないけれど、だからといって今の欲望を全て説明できるわけでもない。

問うて、仮に定めてみて、「ああこれが欲しかったものだ」と思ってみても、確信が生まれない。仮に動いて手に入れてみても、手に入れた次の瞬間にはもういらないと思われてしまう。手に入れていないという事実が疎ましかったけれども、手に入れて見るとたいしたことがなかった、ということがある。そうしてみると、さらに「私は本当は何を欲しているのだろう?」と問いなおすことになります。また、同じところに行き着くでしょう。欲望のいたちごっこが始まるというわけです。

こうして欲望は、哲学的な意味で超越しているかはともかく、人間の言語では非常に捉えがたい、曖昧な地位を持ったものです。肯定的にぱっと言い表すことのできるものではない。
そうした曖昧さに目を向けない、あるいはそうした曖昧さをそもそも持ち合わせていない人は、きっと幸福でしょう。
しかし、曖昧で不分明な欲望から目を逸らしているとしっぺ返しを受けることになるというのも、また事実であるように思われます。自分が何を欲しているのか、本当は何を欲しているのかということを、少しでも考えながら明らかにしていかなければ、精神的な意味でも、物質的な意味でも、豊かにはなれないのではないかと思われます。欲望から目を逸らしていると、どこかで心に不満が残って、ヘドロのように溜まっていく、という次第です。

であるならどうすれば良いか、ということのヒントの一部を、少なくとも我々は否定神学に求めることができるのではないでしょうか。
つまり「私は何を欲しくないのか」という形式で、問いを立ててみるということです。
わかりにくければ、次のように言ってもいいかもしれません。
まずは問う範囲を限定する。範囲を限定せずに何を欲しいかといっても何も分からない。だから、まずもって議論の領域を決めてしまう。これは他の領域を否定する、他の領域を削除して考えるということです。
そしてその中で、嫌なものをどんどん切り捨ててゆく。好きなものを選ぼうと思っても決め手がないから、まずは嫌なものをどんどん切り捨ててゆくという次第です。そして残ったものを、いやいや選ぶ。……

私が或る種否定的な人生を送り続けてきたから言うわけではありませんが、この種の意思決定の仕方というのはあまり間違ったものではないように思われますし、豊かさを追求するのであれば、この観点はどうしても必要になってくると思います。
とまれ大切なのは、否定を完遂することです。あるいは、どこで切り捨てのプロセスが止まったかを銘記しておくことです。……確かに一歩を踏み出しさえすれば、そしてその一歩が知性を能う限り尽くした結果だとすれば、我が身に対する反省があるぶん、どこか尊いもののように思われる。


そもそもあらゆる水準において、意思決定ということが否定的なものである、とさえ言えるのです。

決断という概念がそもそも否定性に裏打ちされたものであるということが言えるということです。

安易に語源に遡る方策には同意しがたい面もありますが、強いて魂を売ってみると、決断の概念はかなりの程度否定的な装いを持つようでもあります。

西洋語の範囲で言うならば、英語にせよフランス語にせよ(ロマンス諸語全てですが)、「決断」に関わる動詞・名詞はdecidereというラテン語の動詞にさかのぼりうるものです。このdecidereは、de-という分離・離脱を表す接頭辞と、caedere「打つ・倒す・裂く・殺す」という動詞が合わさったものです(後者は英語で言えばscissors「ハサミ」に関わります)。そうして、「決める」という抽象的な意味に限らず、「切り離す」「伐採する」などの意味をも持っています。裏を返すなら、他のものからあるものを切り離すこと、それがdecidereであって、その限りにおいて「決める」とい意味があるのです。あまたある選択肢の中から、あるいはそうして分節されてすらいないカオスの中から、「切り離し」て取り出す、それが決断というものです。他の部分は捨てる、という次第です。
(なお、やはり「決断(決意)」などと訳しうるドイツ語のEntscheidungも、ent-という分離を表す(表しうる)前綴りと、scheiden「(契約関係を)解消する」「区別する・区切る」という動詞からなっており、連続性を見ることができるでしょう)

さて我々はどうしようもなく日本語で生きていますから、日本語の文脈から言ってみてもよいでしょう。
「決断」の2つの字はどちらも、「切る・傷つける」という意味を含みます。「断」が物理的意味に「切り離す」意味を持つということはあまりにも明らかですから、ここでは述べません。
「決断」の「決」の字のほうは、一定の広がりを持っていて、着目に値するでしょう。
この字が水に関連する「さんずい」を持つのは、これが「水を流す」、という意味を持っているからです。ここから、「(水が)堤防を破る」という意味でも用いられるのですし、おそらくはこの破壊的な意味から転じて、「裂く・傷付ける」「噛み切る」という意味も持つようになります。caedoおよびdecidereの物理的な意味と通じます。
もちろん「きめる・きむ」と読まれる限りでは、「決」の字は、理性的に「決める」とか、判断するとかいう意味を持ちます。が、同時に、「きる」と読まれる場合の上に見た意味は疑えないものですし、「きめる・きむ」と読む場合においてすら、caedoと通じる、「殺す」という意味(「引決」等)、「別れを告げる」という意味(「決別」等)、また「えぐり出す」という意味を持ちます(これは「抉剔」の抉と通じます)。

以上からは、「決める」ということが、かく否定的な、破壊的な、捨て去るという契機を持った行為であること、「決める」とは言っても必ずしも好きなものを選び取るということを前提する必要はない、ということが分かるように思われます。

少なくとも、明るい面持ちの決断のみならず、嫌なものをばったばったと切って倒した末の決断というものもある、ということは、いくら「ネガティヴ」に見えるとしても決断の本質を照らすようですし、「ネガティヴ」に生きていて、それでも現状にどこか不満を持って、何かを変えたい人びとに、いくらかの励ましを与えるようです。つまり、「決める」という表現がかかる否定的な契機を十分に含んだものであることを前提することで、変わる意識があるように思われるのです。


自分の欲望を理解して、あるいは理解していないとしても確信して、とまれ特定の欲望を選択し・その欲望に沿って生きることは、なるほど非常に前向きなことのように思われます。或る種の理想でしょう。
しかしその「前向き」な生き方に乗っかることのできない類の人間もいる。性質の問題と言えるかもしれません。
そうした人びとは、自分を殺して前向きなフリをするという選択をとることができるにせよ、また表に出すかどうかは別にしても、否定的な道を敢えて採るということを考えてもよいのではないでしょうか。これは決して人生に対して「ネガティヴ」であれ、とか、人生そのものを捨てよ、という態度では、もちろんありません。いわば決然とした面持ちを捨てて、「これは嫌だ、あれは嫌だ」と否定を繰り返していくことによってただ一つ残ったものを選ぶ、あるいは複数残ってしまうのだとしても、選択肢が減ってきたらそこでサイコロを振って選んでしまう。ともかく、こちらから、いかに「ネガティヴ」な仕方であれ、攻めて決定する、そうした態度を、私は構想しているのです。

「俺はこれがやりたいのだ」と言ってものを選び取るような、肯定的な、前向きな、面持ちとは違います。晴れやかな、決然たる振る舞いではないかもしれません。
しかし私たちは、決然としない、晴れやかでない面持ちで決断することもできるのであって、つまり「ネガティヴ」なままでも生きていくこともできるのではないでしょうか。そしてそれが、前向きな生き方に何ら劣らない。
それどころか、否定を完遂しながら、嫌なものを全て抹殺するという方向に決断を重ねていくのであれば、肯定的な選択を繰り返している人間よりも多くの可能性に触れている点、より豊かな人生を歩んでいるのかもしれない寧ろそう思うことで、ポジティヴであることを強制する或る種の空気に、それと悟られぬままに復讐することができるのではないでしょうか。

(なお、かかるかたちでの「復讐」については、以下の記事でも書いた通りです:【15】優雅な復讐をしよう(三島由紀夫『春の雪』41)

……以上はもちろん、私の考えです。以って、万人が活用しうる保証はありません。とはいえ、「お前の考え方が嫌だから切り捨てる」というのもまた、否定的な決断のひとつとして、欲望へと一歩近づくきっかけにはなるのでしょう。