見出し画像

私が幸せな理由を考えてみた

yomtのおにぎりと申します。

『平成論』という本を読みました。
タイトルは「平成論」ですが、「平成の社会と宗教の関係を振り返る」という内容です。

『平成論』の主題

オウム真理教やISの自爆テロなど、過激な活動に参加する人々。その背景には「生きづらさ」「生きる意味を感じない」「ぼんやりとした不安」があった。

「生きづらさ」を解消するのものが、学生運動だったり、過激な宗教だったり、スピリチュアルだったり、ジブリ映画を見て癒されることだったり…と、時とともに変化してきました。

私の疑問

この本を読んで、自分は特に「生きづらさ」を感じていないことに気づきました。宗教も癒しも不要なくらい、まあまあハッピーに毎日暮らしています。

なぜ私は幸せなのでしょう?

生きる意味のなさ

そういえば、10代の後半は悩み多い時期でした。
友だちも色々と悩んでいて「生きる意味なんてあるのかな」と話したりしました。

同時期、地学が好きで勉強していました。大学も地学を専攻しました。勉強していくうちに、人間の小ささを感じるようになります。

太陽は偶然できた星々の1つで、地球に生命が誕生したのも偶然。
当然、私が生まれたことは偶然で、私が死ぬことも偶然です。
そして、宇宙や地球の歴史からすると、人の一生は瞬間的すぎる。

だんだん「生きる意味があるか否か」と悩むことが無意味に思えてきました。

私たちは、ただ偶然に生まれて死ぬ、小さい存在です。死んでも良いし、生きても良い。意味を見つけようと苦悩せず、肩の力を抜いて良いのではないか。

死ねない理由

つぎに、死んでも良いならば、自分が死んだらどうなるのか?を考えました。

家族は絶望するだろう。父親は絶望のあまり、自殺するかも。おじいちゃんは心臓が止まるかも。友だちや知り合いにも、ショックを受ける人はいそうです。

自分がいなくなった後、周りの人をそういったことに巻き込みたくない。だから、なるべく死なないように気をつけて、偶然死ぬまでは生きたい。

「家族が悲しむ」で生死の問題を片付けるのは、あまりに道徳の教科書的というか、求めていた答えではない気もしています。

では、悲しむ人もショックを受ける人もなく、誰の記憶にも残らず、私がいた証拠はすぐさま全部なくなって、今すぐパッと消えられるとしたら?

消えても良いですし、今がパッと消えるラストチャンスなら、積極的に消えたい。

それなら、今のところ自分が死ねない理由は「家族が悲しむ」で良いかな、と考えています。

人生をどう過ごすか

さあ、とりあえず「死ぬまで生きる」と決めましたが、人生をどう過ごしたら良いのでしょうか?

善人として生きるとか、社会の役に立つとか、色々考えた結果、「楽しく過ごそう」と決めました。

意味もなく生まれて偶然死ぬのだから、せめて幸せを自覚しながら過ごして、楽しかった〜と死にたいです。

正直なところ、私はしょうもない人間です。
体力が無く、ものぐさで、頭の回転は遅く、よく仕事で失敗します。たいていのことは思い通りに進みません。
この前はひょんなことからLINEのトーク履歴が全部消えてショックを受けました。
周りが結婚していく中で独身なことに引け目を感じます。

でも、家族がいて、仕事があり、優しい人たちに囲まれています。たまに優しくない人もいますが、悪人はいなさそうです。コンビニに行ったら物を売ってくれます。住む部屋があります。スカイツリーを見ながら散歩できます。毎日ごはんやお菓子が食べられます。映画を見たり、音楽を聴いたり歌ったり。本を読んで考えることができて、人と話せます。

とてもラッキーで幸せなことです。

さらに、死ぬとき気兼ねなく死ねるよう、興味が湧いたことはなるべくやってみることにしました。
仕事、習い事、運動、趣味、食べたいもの、見たいもの、などなど。
飽きたらやめても良し。小さな自分の人生、そのへんは自由です。
動くのが面倒で寝転がっている日も多いですが、それも良し。ダラダラできるのも幸せです。
そうしていたら、わりと楽しく毎日を過ごせるようになりました。

なぜ私は幸せなのか

最初の疑問に戻ります。「なぜ私は幸せなのか?」

「自分は幸せだと決めているから幸せだ」というところでしょうか…

この話、サンプルは30年間の自分の人生だけです。(悩んでいたのは10代の頃…大人になったものですね…)

今までラッキーだっただけで、今後つらい経験をしたら、同じようには思えないかもしれません。
他の人がなぜ幸せなのか、なぜ不幸を感じているのかは、私とは違うかもしれません。

あまり周囲の人とそういった話をしたことがないので、みなさんの幸福論があれば教えてください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?