映画「のさりの島」を観てきました
2021年7月24日、浜松シネマイーラにて映画「のさりの島」を観にいってきました。
※ネタバレあり。けっこうがっつり書きます。山本起也監督許可済み。
のさり、というふしぎな言葉は、大分県出身の友人も聞いたことがあると話していました。運がいい、めぐりあわせが悪い、など、良くも悪くも使うのだとか。「前世の徳とか業にかかわること?」と訊くと、「そこまでの因果は感じないなあ。銀のスプーンを咥えて生まれた、みたいなのに近いかも。生まれつきたまたま、みたいな。」
映画が始まり、熊本県天草市のシャッター通り商店街に、藤原季節演じるオレオレ詐欺犯人が登場。えっ、映画のチラシの雰囲気はほのぼのとしているのになんだこのサスペンス感は…不穏な雰囲気にハラハラしてしまう。ちょっとぞっとするくらいの美青年。塗装の褪せた看板の並ぶ風景のなかで明らかに余所者。それを自覚して気まずそうに行動する姿。
適当に商店街のお店の番号を見て電話をかける。楽器屋のばあちゃんがひっかかった!「オレの友達の小松ってやつがお金を代わりに受け取りにいくから、誰にも言わないでね!」「はあぁ」
「あの、小松ですけど」「将太ぁ。おかえりぃ」ばあちゃん(原佐知子)は絶妙なタイミングで風呂を勧め、食事をふるまう。たぶん東京あたりから詐欺をはたらきつつ、神経をすりへらしながら南下してきた彼には抗えないもてなしだろう。だし巻き卵、煮込み料理をかき込んで「うめえ!」彼は初めて本当の言葉を話す。「ばあちゃん、これなんていうの?」「だんご汁」「酒ある?酒」「ああ」爆睡。
彼は店に入るなり、住民の善意のかたまりのような、レジ台の上の代金箱(牛乳配達の箱)から小銭を全部ガメていた。ばあちゃんは熟睡中の彼のスマホを奪い、詐欺グループからの電話に適当に答えて電源を切り、財布を抜き、レジをチェックする。代金箱はカラ、レジ内の釣銭は無事。ボールペンでかき回してそのまま帳簿をつける。ぜんぜんボケてないばかりか立派な店主の顔…。
ローカル放送「みつばちラジオ」のパーソナリティ・清ら。彼女はこのシャッター商店街が人でごったがえした賑わいの記憶の証拠を追い続けているが、世代的にどうも現実だったかどうかがあやしい。仲間と8ミリフィルムの収集を行い、上映会を企画している。鞄屋のおじさんは「アルバムならあるが」と店の照明を灯す。しばしして、照明のスイッチは切られ、再び暗くなってしまう。
楽器屋のばあちゃんを訪れる。二階の倉庫の片付けを将太にやらせており、二階に孫がいるからそこにアルバムがあるという。清らは将太と出会い、8ミリ上映会のメンバーに巻き込む。
「ばあちゃん、孫なんていたっけ」と、近藤くんに訊かれたばあちゃんは「んんん、いっとき」「ああ、帰省?」「そ、きせい」。
めったに人の通らない商店街でブルースハープを吹く女の子(小倉綾乃)。それがイルカショーの受付の人だったという「灯台下暗し」。8ミリ上映会に彼女も意外な形で協力する。
都会から来た刃物のような美青年はすっかりばあちゃんに牙を抜かれて「地元のニート」の顔になっている。清らの父は、一度は言いかけて静観していたが、あの家の孫は亡くなっていると告げる。将太とふたりきりのとき、清らは問う。「将太さん、ほんとはどこのひとなの…」
死んだはずの孫を装う男が、うら若い自分の娘のそばにいたら、父親として心配になるのが世間一般の反応だろう。しかし、清らの父は、うーん、ふしぎなことがあるもんだなあ、ぐらいの受け入れ方。父子の二人暮しで、ここに女親がいたら話が変わってくるかもしれないが。
日本のジェンダー論などで九州地方の男尊女卑文化がよく話題になるが、映画館のおじさん(野呂圭介)の、若い女性との距離をとりかねて遠慮しすぎの不器用な優しさや、酒を(たぶん芋焼酎)これだけ飲ませておけばこの程度の音では目を覚まさないだろうというばあちゃんのしたたかな計算、一筋縄ではいかない世界。
清らの親友・美容師のユカリ(中田茉奈美)は飛行機に乗って東京へ移住してしまう。勝気でお洒落な彼女は田舎の退屈や閉塞感を口にしていたが、この複雑すぎる土地の仕組みのなかで生きてゆくには実はデリケートでナイーブな心の持ち主なのかもしれない。
清らはラジオで石牟礼道子のことばを読む。この映画には「のさり」という言葉は出てこないが、石牟礼文学のなかに出てくるらしい。「苦界浄土」は私は未読なのだが、魚に水銀が入っていると知りながらそれでもその魚を食べて生きてゆくと決めた水俣の人々が描かれていることを思い出し、将太は水銀のような存在ではないか、それでも、わかっていてもまるごと受け入れた人々。合理的に説明がつく世界ではないのだ。
ばあちゃんの孫の「本物の将太」の幼いころの写真は崎津のキリスト教会の前で撮られたものと知った彼は、ばあちゃんのもとを去り、崎津へ赴く。港をうろうろしていると、漁師が漁船に乗せてくれる。教会の存在、このこわもての漁師(外波山文明)とオレオレ詐欺の若者がふたりきり。どんな懺悔合戦が…と思ったが、漁師はもう「顔が懺悔」。なにも言わずとも背負い過ぎた過去が伝わった。
海から、崖に立つマリア像が見える。漁師は、それを見るために青年がやってきたのかと思ったようだ。ああいうものは「まやかし」だ、という。それでも人には必要なときがある、と。
清らの取材した能面師(柄本明)も、住民みんなで作っている案山子を「まやかし」と言っていた。それでも作るし、それでも再び見るために引き返してくる人もいる。清らの追い求める「まちの賑わい」の記憶ももしかしたら…というところでたちあがってくる案山子たち。
私が静岡市に住んでいたころ、父が、学校で生物の授業を教えていた生徒が映画監督になって、ミニシアターのシネ・ギャラリーで作品「ツヒノスミカ」を上映するから行ってみろと言われ、山本起也監督の祖母の家をたたむにあたってのドキュメンタリーを拝見した。その後、「カミハテ商店」も公開。
浜松に暮らすようになり、友人に勧められた小説・深沢七郎「楢山節考」を読んで泣いた。本気の涙が出た。急にずっと前に観た「カミハテ商店」がよみがえり、TSUTAYAへ走り、倉庫へ仕舞われる直前だったDVDを借り、またしても泣き、泣きながら山本監督へ手紙を書き、静岡市の呉服町にあったご実家・「ツヒノスミカ」にも出てきた婦人雑貨洋品店に持っていき「ごめんくださーい!」「あらー、起也さん昨日までいただけんが帰っちゃって。これを渡せばいいんですね」。これが私と山本起也監督とのご縁である。また、その後、歌人の吉川宏志氏のご子息・鮎太さんが京都の大学の山本監督のもとで映画を学んでいることも知った。
ある年の山本監督からの年賀状に、駿府公園の小さな噴水の、子どもを抱いた白い人魚の像の写真があった。静岡市の駿府城址公園は、開発や発掘調査が盛んで、これはもう失われてしまったようだが、私にとっても幼いころから見ていたものでなつかしく、当たり前すぎて記録しようともしなかったものだ。山本監督は写真にして残しておいてくださった。
崎津のマリア像にこの人魚像が重なった。
映画に同行したのは、浜松に新しくできた友達。私の自宅で開いた、ケーキを焼きながら歌会をするという企画でオーブンを貸してくれたり、浜松市では俳句文化が盛んであることを教えてくれたり。
お仕事のお休みはこの土曜日しか取れなかったというが、ちょうど山本監督の舞台挨拶の日。「のさってる!」帰りの立体駐車場の出口のバーが開放状態で「なんかのさってない?」と二人の間で「のさり」がちょっと流行った。
ふたりで喫茶店「ざぼん」へ。私はばあちゃんの手作りのクリームソーダを観たのでクリームソーダをオーダー。こっちは緑の色がついているが。しゅわしゅわ、かちゃかちゃという音声に食欲をそそられた。「この前一緒に行ったシン・エヴァとは造り方が逆の映画だったねえ!」などと語り合う。
「のさりの島」は、場面の切り替えやストーリーの進み方がスローテンポで、理解がしやすい。舞台挨拶の監督と映画館館長との対話で、冒頭で電話を切ったばあちゃんがまず仏壇の写真を仕舞うしぐさについてが話題にのぼったが、その意図は私にはすぐにわかった。照明も、暗くしてしまえば全部ないことになってしまうけれど、暗くしたことで見えるものがあり、それは8ミリフィルム、かつての大火の記憶、そして映画そのもの、この映画…。わかりやすいけれど、きっともっと仕掛けがあるのだろう。何度も観たくなる。風景が美しく、懐かしく、ゆっくりだけどあっという間。リピーター続出だという。私もまた観たい。ロケ地の「聖地巡礼」もしてみたくなった。
映画の企画を持ち込むと、オレオレ詐欺犯罪の話だということでたくさんの自治体からロケのNGを喰らったらしい。しかし熊本県天草市では、地元の方々の「こういうことは、この街ならあるかもしれんばい」という声と協力によって受け入れられたのだという。
静岡県浜松市も断ったのかしら。駅南口の砂山商店街なんかけっこういけると思うのだけど。沼津市の新仲見世とか。もし「彼」がうちの街にやってきたら…と、日本中のどこに住む人でも想像が膨らむかもしれない。さて、どうやってもてなそうか。
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