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盤山のいま①

目には見えないが、確かにそこに受け継がれているものがある

前回の記事に引き続き盤山を追う。歴史調査を踏まえ、今回は与論にルーツを持つ有馬芳子さんと、芳子さんのご子息で移住2世の国登志さんにインタビュー。入植後、ヤブキタ種のお茶栽培にて町に欠かせない存在となった盤山のその後、住民さんらの現在の生活についてお話をうかがった。

段々になっているお茶畑を横目に、山深く静かな道を上る。大原から続くグネグネと長い「あじさいロード」を車で約10分。盤山公民館がある。

芳子さん(以下、よ)「びっくりしたでしょう、遠くて。初めていらっしゃる方はですね、『こんな山の中で何を食べているのか』って言うんですよ。見れば山と木ばっかりでしょう。ことに与論の方はですね、向こうは山がないから、盤山に来ると怖がるんですよ。入植したとき17歳でしたけど、よくこんなところに来たなと思いますよね。だけど、住めば都です」


異文化-ユンヌとからいも言葉

盤山は、世論と大隅の文化が混ざった独自の歴史や文化を持っている。特にわかりやすいのは言葉だろう。与論でありがとうは「とうとがなし」、おじさんは「うざんか」。

別の文化が根付いている見知らぬ土地へ他文化を持ち込むとどうなるのだろう。移住者の私にもわかるようお話してくださるお二人の集落での言語は「与論からいも語」らしい。

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チャーミングな芳子さん。入植して75年間盤山在住。

ー話し方が大隅と違うように思うのですが、おしゃべりになっている言葉は  
与論のものでしょうか?

「与論の言葉は使いますよ。ここら辺のお年寄りの方とは。鹿児島の方言が使えないんです。あははは」

国登志さん(以下、国)「ニュアンスが違うしね」

ーイントネーションが違うなと思いました

「鹿児島弁でも『本当にありがとう』って言葉があると思うけど、そういうのは与論にもあるし、違うもんね」

ー鹿児島弁と与論の言葉と混ざって半々になることは?

「しょっちゅうそんなのが入るよ。私たちは聞く分にはできるけど、話すことができない。丁寧語とか普通語とか全部ごちゃ混ぜになって変な話し方しちゃう」


与論島と盤山の関係

田代町と与論町の姉妹町盟約が結ばれて今年で50年。盤山の人々と与論の人々の交流について聞く。半世紀たったいまでも両町では人の行き来がある。コロナ下でも贈り物をしたり、連絡をとったりとつながりは密だそうだ。

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国登志さん。芳子さんや地域の方を見守る。

ー入植後、与論島のご親戚やご友人との関係はどうですか?

「(芳子さんが)与論島で同窓会を1、2回しました。もう何回か行っているんだけど、また行きたいって相談してる」

「いとことか、お父さんの方の親戚とか私の親戚とか。また同級生もいっぱいいますのでね、あはは…。だからね、『与論においでおいで』って言うんですよ」

「(親戚や友人に)黙って行って2、3日で黙って帰ってくる。会えば帰れなくなるの。『今日はあっちの家に泊まって、明日はこっちの家に泊まって』って始まったら目処がなくなるから」

ー皆さん嬉しいのですね

「そうそう。与論に帰ればもうダメですね。浦島太郎になります。みんな待ってるんです。帰れないのよ。だけどありがたいですよね。親戚や同級生は本当に喜んでくれるんですよ」

「2、3年に1回は行ってる。空港で話し込んでしまって一度は飛行機を遅らせたこともある。」

「そんなこともあったね」

「今年もね、この間の電話で『90歳の同窓会がしたい』って言うから、『90歳の同窓会ってみんな半分ボケてるんじゃないですか』って言ったの。そしたら『記念だからボケててもいいじゃないの』って電話がくるんですよ。それがありがたくてね。90歳の同窓会なんて聞いたことないでしょう」

ー仲の良さが伺えます。電話などでも頻繁に交流があるんですね。


記憶を引き継ぐ

次の世代へと受け継がれてゆく記憶や文化について。入植から約75年経ち、急激に過疎が進んだ盤山。人との交流が減ってしまったいま、文化や歴史の引き継ぎは、どのように行われているのだろう。

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お茶で受賞した賞状やトロフィー。真ん中の写真は芳子さんの亡き夫、功さん。

ー若い方々へ、どのように与論の文化やルーツを引き継いでいますか?

「何度か向こうへ行っているし、歴史をまとめたものを読んでいるからだいたいみんな知ってるんじゃないかな。娘は母親が与論の人やったじ、与論のことはわかる」

ー書き物以外にはどのような引き継ぎがありますか?

「コロナが始まってからこの集落では集まらなくなったのだけど、その前は年に数回集まってた。年始とか、公民館の周りの掃除とか敬老会とか。そのあとはみんなで語ったり飲んかたしたりして。そうすると年に結構な回数集まるか。それに大原地区でソフトボールとかがあれば、若い人だけで飲んかたとか。それを子どもの頃からみんな一緒にしているから自然と入ってる感じ。普段そんなに話はしないかな」

ー盤山から離れた地区、例えば大根占地区に住んでいる方々にここで起こったことを知ってもらいたいと思いますか?

「そこまではないかも。私たちくらいの歳の人は地元の人と結婚した人が多いから…。大根占とかにもたくさん引っ越している。だから、地元に馴染んでいってる感じです。その割には、ちょっと他の集落とは文化が違うところはあるけれどね。集まりはけっこう賑やかだったから」

ー盤山の歴史や文化は薄れてきているのでしょうか?

「薄れているというより、馴染んでいってるというか、浸透していってるような感じです。でも、若い人がもういないのよ。若い人が今年2人亡くなってしまって。ひとりは70代、もう一人は64くらいだったかな」

ー今の錦江町の人々に知ってほしいこと、覚えていてほしいことはありますか?

「そうねぇ…。うーん。私はさほど地元の方とね、お年寄りの方とは話ができないんです。鹿児島語がさっさと使えないから。」

「お茶栽培や紫陽花やってるからけっこう地元の方は知ってるんじゃないかな…」

文化の浸透によって、錦江町と同化しつつある盤山。人はこの土地から離れてゆくが、心のつながりが強いから、だれがどこにいても、何があっても大丈夫。不思議と、そんな安心感が伝わってきた。

盤山のいま②に続く。

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