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新橋に合ってきた

 まず個人的朗報から。修理に出したPCが帰ってきました!想定よりかなり早いし、対応も仕事ぶりもすこぶる満足度が高く、引き取りに行った日は菓子折り買って持っていきましたから。御礼の気持ちがとまらない。
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 最近わたしは新橋づいています。仕事で行く必要があるとかでなく、あえてわざわざ新橋、です。むかしサラリーマン時代に(仕事で書きものするときは《ビジネスパーソン》とか書きますが、あんまり気分が出ない)新橋が根城だったもので、実はこれまであんまりよい思い出がありませんでした。たとえば、狂ったようなお酒の飲み方をする文化の会社だったので、上司たちが頭にネクタイを巻き付けて、わたしたち一兵卒らはそのあとにつき大声で輪唱などしながら練り歩いたり。念のために言うと、こういうことをガチでやってた世代ではないです。ひと昔以前の「新橋サラリーマン」の光景を、当時面白がって上司たちはあえてやっていた。そういうことがいやでいやでたまらなかったわたしは、よく上司から「おまえって大企業のOLみたいでむかつくんだよ」と言われていましたね。

 あの頃、本当に日参するように新橋周辺に通っていて、会社は虎ノ門でしたが新橋あたりであれば電車に乗ることはないので、周辺は本当に庭のようでした。大嫌いな庭。猥雑で混沌で貧困が垣間見え、ギラギラとした感じもすごくいやらしく映って憎んでいたかも。それなのに、この変わりよう!

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 きっかけはその時の上司というか役員と昨今国交が大回復を遂げてから、年1で飲むのですがボスの指名が新橋。帰りやすいというのが理由のようですが、それで10数年ぶりに訪れる習慣を持ったら、なんと新橋はわたしにやさしいまちになっていました。かつて大嫌いだった猥雑さと混沌は、むしろやさしいカルチャーとして感じられ、垣間見える貧困も忌むべきものではなくそれも社会の一部であり、自分自身もその社会の一部であること、つまりそれらと分断された場所にもはやおらず、自分は社会のなかに入った感じすらします。ギラギラとしたものは生命力にも見え、ライブ感に満ちていてとても楽しい。

 それからはよく烏森口の「ニュー新橋ビル」に立ち寄るようになりました。昔もここだけはなんとか、コーヒーを飲むほどには時間がない、わずかの時間調整にぶらぶらして時間をつぶしたりしていたところ。けれど、地下に広がるまさしく猥雑さと混沌の巣である飲食店街が、最近ことのほか愛しい。小さな店がぐるぐるとさざえ堂のように連なり、歩いていると客引きされながら、どこもかしこもエネルギーでいっぱい。豪華な食事などなく、構えて飲食する店などなく、気ままに気軽に一日の終わりにめいっぱい解放感を得るために飲んで食べる店しかありません。
 それがいい、と思えるようになったわたしは、やっぱり年を取ったのでしょうね。

これはアークヒルズの桜。もはや散る花弁がはらはらと舞う

 今夜、かつての仕事先の女性ばかりそこにお連れしたのですが、皆さんエンタメ感として大いに楽しまれていました。ひとつだけ残念だったのは、「あの映画見た?」とか「今こんな仕事しているんだけど」とか、そういう話にはならなくて、ずーっと愚痴の会になってしまったこと。けれど、わたし一人「イチぬーけた!」とそこを出たから違和感を覚えるのであって、当時どっぷり浸かっていたときは、同じように愚痴しかそのメンバーでは共通するテーマはなかったのだと思い出しました。それは、誰が悪いとか、特別そのメンバーが悪いとかでなく、みんな生活が会社でいっぱいになっているということ。一日のすべてをそこに奪われているのだから、その話にしかなりえないということなのです。そして改めて、自分はもうそういう話には乗れないなぁ、と思ってしまい、このメンバーで飲むのももうきついものがあるな、と感じたのでした。ちょっと悲しい。ともあれ。

 人情、というふうに言うと簡単なようにも思います。けれど難しく考える必要もなく、簡単でいいのが新橋かもしれません。9時から5時、頭を低くして耐えに耐えてきた人たちが、一挙にあちこちで花火となって解放されるまち。生命力をとても感じるまち、それが今のわたしの新橋観なのでした。

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