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ただ刹那に通り過ぎていくもの

 どんな人間になりたいですか?私はすこーんと突き抜けからっとした人間になりたいのです。というからには実際が、じめじめくよくよした人間だという自覚があるわけです。

 ただそれは、表面的にはそう見えないよう努めてふるまっているために、そのような印象はほとんど持たれていないこともわかっており、そこは奇しくも自分ブランディングが成功しているのかもしれません。ただ時折、真にからっとしたひとに遭遇するとその取り繕う必要のない潔さがまぶしく、文字通りくらくらとすることがあります。光が潔くまっすぐであるがために、生じる影たる自己のほの暗さを思い打ちのめされることが多いのでした。

 おそらくすこーんと突き抜けてからっとしているひとにおいても、内心での悩みや葛藤はあるに違いなく、しかしそうしたひとは自分のルールがしっかりとあり、葛藤に対する向き合い方と答えの出し方がとても研ぎ澄まされているのだと思います。では私のようにじめじめと湿度をもってしまう人間はどうなのか?というと、結局は猜疑心や不安をぬぐいされない陰性の性質をもっていること、そしてそれらは多分にして経験による負の蓄積なのだろうと思うわけです。

 たとえばどういうことかと言えば、本当に思いがけず自分が歩いてきてしまったキャリアにおいて、細胞分裂の誤りパターンのような自分が入り込んでしまったことで、そのソサエティに当たり前である家柄の標準性を持ち合わせていなかったことで「あれ、自分て異質なんだな」というのを理解し、それらを表に出したらこの善良でふつうのひとたちを無為に困惑させるのだな、それはいけないことだ、と思いいたったので、私はキャリアの過程においてそのソサエティにうまく雲隠れするよう自分という者の色を消すことに努めたのでした。そしてそれがおそらく、「本当の自分を知られたらこのソサエティはバランスを失うのだ」という恐怖に駆られ、その不安を根底にもって生きてきたことが粘性の湿度を自分の内側にはりめぐらせたのだと最近になって思うのでした。

 ただ、正社員という王道をはずれ、業務委託で働くようになってからはマジョリティたる雇用側と雇用されるひとびとから、「前提として異質」と思われてスタートとなるため、もともとが排斥されたるソサエティの一員でもないわけです。雇われずに生きる選択の時点で自分なぞ異邦人であるわけでそこは気楽さと、否、やはり「ふつうでありたい」と欲し続けた自分にはかえって一層のよるべなさをもたらしたのかもしれないのです。

 いつもどこにいても「異邦人」のような感覚で生きています。そして後天的にそれは自分の個性になってしまっているとも思われます。私が東京を好むのは、そんな人間ばかりであり皆だれもが異邦人の感覚をどこかで持ち合わせているような、都市とはそういうものかもしれませんが、蓄積されていくのではなく、ただ刹那に通り過ぎていくものだけでつくられた街だからなのかもしれません。

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