日々に再生する
部屋でほとんど24時間、冷房を入れている季節になると自分は結構内側に入っていっていく傾向があるな、とふとリネンの肌触りに癒されながら気づいた。
鶏と卵ではないが、「24時間、熱を避けて体を冷やしているから(外出もしないし)思考の世界に入り込んでいくのか」、あるいは「外的な世界が起因して内側に入り込みたくなるから24時間、熱を避けて鬱々と暮らすのか」。この因果ははっきりしないのだけれど、気がつけば20代の頃からこの傾向があった。真夏になればなるほどに、太陽が生命力を喚起しまくる暴力的な熱波の季節になればなるほどに、自分の心はすーっと内側の世界へ深く入っていってしまうのだ。
これは何も暗く鬱っぽく過ごしているということではなく、思考世界の住人でいる時間が長くなる、ということを意味している。自分は普段、新聞の活字を追うことがとてもくつろぎの時間になるのだけど、こういうシーズンに入り込むと活字がつらくなる。とりわけ、新聞は毎日毎日届けられ、読まないことが罪悪感としてのしかかってくる。
こういうところが実に小市民的であり、いかにも自分の個性を現していると笑ってしまう。
海を焦がれなくなった。これは悲しい変化だ。
コロナ禍になって移動の制限をされるようになってから、毎年訪れていた海辺に行けなくなり、制限が解除されると自分のなかで海辺に行くことが億劫に感じられるようになっていた。こういう発見はとても悲しい。
そういえば森瑤子さんが著作のなかで、「かつてあれほどに胸をかき乱した海の向こうに沈む夕日を見てもなんの感動ももたらさなくなった」というようなことを処女作に書いておられ、これは2つの意味で記憶に残った。ひとつには、「森さんにとって、海が感動を呼び覚まさなくなった現実がかようにつらいことなのだ」ということ。おそらく、人によってはスルーできる些細な変化のひとつであろうが、この現実は森さんを(正しくは登場人物を)打ちのめすほどに「何かの」減退を意味しているということだからだ。
もうひとつには、いつか自分もそうなってしまうのだろうか、ということ。
悲しい哉、実際にそうなりつつある気がする。けれどもうこのことは経験済みで、違うのだ。人の感性は幾たびも再生することを知った。
それなので、そういう人生のシーズンもあるが、何度でもまた、海に生命を飲み込まれるような感動に激情に、遭遇できる時がきっとくる。事実そうであった。
まだ、「きっとくる」と知らなかった人生のある季節、20代の終わりの自分は今思えば非常に無垢な精神で、自分に毎日少しずつ失望をし、毎夜仕事で招待されるハイブランドのパーティーをはしごしながら、苦しみから目をそらすようにシャンペンを流し込んでいた。自分はもう終わりなのだ、何が?自分が自分であると言い得たかけがえのない部分が、もう死んだのだ、そういう心持ちで毎日を頭を酩酊させていないと生きていられなかった。
幸いなことにそのつらさを今はもう、「世界の終わりのように嘆いていたが、そんなことは大したことじゃなかったでしょ」と当時の自分を慰められるほどに人間のタフさを知っている。経験値ってありがたいことだ。
とりあえず熱いお風呂に入ることにする。ゼラニウムのオイルを垂らそう。蒸気と共に香りがたちのぼる湯に全身を浸して、幾度でも小さく生まれ変わろうとするそれは、まるで再生のための日々の儀式だ。
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