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唯一無二の二人称代名詞

この時期に青空にとてもよく映える白い花が美しいのは「こぶし」。和名はものすごくいかついのに、なんと欧名はマグノリア。マグノリアといったら香料としても名高いのに、こぶしといったら生薬の方。自分は和名を先に知って長く親しんだのも和名のこぶしであったので、マグノリアが同じ花と知ったときは驚いた。ハイカラやんけ。一方、マロニエと欧名に先に親しんでいた植物が「とちのき」である。これがまた、マロニエと聞けばイメージするのはパリの石畳(行ったことはないです)だが、「とちのき」と言えば栃木県の県木を連想する。

呼び方ひとつで変わる。脳内に瞬時に結ばれるイメージの像が。それが名前。

長いつきあいのあの人の名を、呼ばなくなったのはずいぶん前のことだ。正しくは「呼べなくなった」のだけど。ただしそれは、本人を前にして呼ばなくなっただけで、心の中や頭のなかではいつも名を呼んでいて親しい。とはいえ苗字の方なのだけど。わたしはあの人の変わった苗字を気に入っていたのだ。本人になんて呼び掛けているかと言えば、「あなた」だ。二人称代名詞で、誰のことも当てはまってしまう呼び名で、唯一無二の人を呼んできた。理由は実にばかばかしく、唐突に名を呼ぶことが恥ずかしくてたまらなくなった瞬間がある。何かがあったわけではないのだが、急にできなくなった。ところが「あなた」という呼び方は蠱惑的で秘密めいており、あの人を表すのにこれ以上の言い方はないようにも思われた。

反対にあの人は、当初わたしの名を呼ばず二人称代名詞の亜種で呼んでいたのだけれど、あるときを境に名を呼び始めた。わたしはそれがほんの少しくすぐったく感じられ、二人称代名詞を恋しがった。当時、なぜそう感じたのかてんでわからなかったけれど、今ならわかる。手の届かなかった彼が「自分の場所」に下りてきたことに少し失望したのだ。還俗されたような気がしたのだと思う。阿呆な。

そうして何度目かの「二度と会わない」の挙句に性懲りもなく再会をして、あの人はわたしの名を呼ばない。

悲しいことにそれは、わたしに彼をかつてのように孤高の人に思わせないほどに、時間が流れて関係すらも変わったことを教える。ただわたしだけがいつまでも、名を呼べずに「あなた」と繰り返すばかりだ。

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