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個人的な儀式

今年、わたしにとってはとても高額な買い物だったラルフ・ローレンのネイビージャケット。ピンストライプがシャープな印象を際立て、非常にタイトな仕立てでまさしく求めていた一着!とひとめぼれして購入したのだが、合わせるボトムが結構難しくて出番があまり訪れなかった。けれど、昨夜はわたしの一年を締めくくる個人的な儀式の日、同じく「よそいき用」としているシンプルだけど構築的で美しいワンピースの上に羽織るのにちょうどよかろうと決めた。

そして、いつも年末には最後の最後に駆け込まない程度のスケジュールで髪をカットしに行くのだが、普段だらしないことこの上ない自分であっても、年末年始くらいはこういったルーティンを大事にして、さっぱり整えて新年を迎えたいと思っている。ちょうど昨日の昼間に予約をしていた。

担当の美容師さんは、わたしの装いを見るなり「すごく素敵なお召し物…。お仕事ですか?」と言ってくださったが、気恥ずかしくてもごもごしていたのだが、カットし始めて「パーティーですか?とっても素敵なお洋服で見ていて感激してしまいます」とまで言ってくれたので、とうとう恥じ入りながらも白状した。「実は、もう何年も一人で勝手に儀式化しているんですが、Sホールに第九を聴きにいくのです…」というと、「うわ!いたココに!」と言われて理由を聞くと、「実は先日、ジャズのコンサートで久しぶりにSホールに行ったら、なんて表現したらいいのか、音がこの辺で音符の洪水になっていて感動したんです」とおっしゃる。

そう、そうなのだ。

Sホールの音の響きは特別で、細胞のひとつひとつに音がしみ込んでくる気がするのだ。そして、第九はなぜか日本では年末の風物詩であるが、この交響曲の持つ生命、生きることへの讃歌は魂レベルで共鳴するものがある。それなので、今年もよくがんばったな、終わりにしてもいいかもしれないな、そんな気持ちでわたしは第九を聴いて、年の終わりを自分だけで納めることにしている。

この担当美容師さんは、こういったニッチな嗜好のレベルをとても理解してくださる見識の広さがあって、隈研吾の建築物のすばらしさなど話し合うことができる。「美容師って、そういうことわかってなくちゃならないって若いころの師匠に言われたんですよ」と言っていらしたが、髪型ひとつ作るのにこういう観点をもっているプロがいるんだなぁと感慨深く思ったものだ。

湿度を含み、たっぷりと重たくのしかかる灰色の空の下、Sホールへ向かう道のりは年の瀬の重厚さが感じられて雰囲気充分。

しかし演奏が始まると不安になった。

いつもの感動が訪れないのだ。女性の指揮者だったのだが、正直に言うと彼女の指揮に乗れなかった。鋼の鞭のようなしなる身体で、命の限り真剣勝負をオーケストラに挑みかかり、難題なこの楽曲の世界を掌握するような存在でないように感じてしまった。音がホールに舞わない。細胞に語り掛けない。

けれど、シラーの元詩による「歓喜に寄す」の大合唱が始まると、一気に総毛だった。人間の声による「生きる喜び」が、ホールに観客に、共鳴を起こし、クライマックスまで歓喜のなかで突っ走った。

きらびやかなホールから一歩外へ出ると、澄んだ冷たい空気のなかに音の余韻がにじんだ。

今年も終わるな、満点とはいかなかったけれど、まあまあわるくなかったんじゃないかな。2019年も。そんなふうに思いながら今年も儀式を終えたのだった。

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