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「場所」の感傷

数えきれないほど四季を過ごして、そこここに記憶が生まれるけれど、もはやそんなものたちは日常であり、さらさらと流していくことができる。

けれど、それなのにひどく感傷的になってしまう時期と場所というものがあるのだ。わたしにとってそれは、内幸町と溜池山王で、普通に生きている限りは鎌首をもたげてきて苦しめることのない記憶が、不思議なことにこの2つのエリアに行くと涙がこぼれるのを精一杯がまんしなくてはならないほど感傷的になる。

内幸町は仕事をしてきたなかで、もっともつらいことの多かった時代を生きた場所。考えても考えても答えの出ない難問に、頭をすっきりさせるためだけに無駄に出歩いたりもした。日比谷公園の暮れてゆく風景のなかで吹き上がる噴水を虚無のまま眺めて過ごした。そして帝国ホテルには……。この頃好んでつけていた香水も、瞬間的に時間を巻き戻してしまって胸に迫りそうになったりする。

それより少し前の時代、営業職で朝タイムカードを押したらそのまま夕方まで社に戻れない生活をしていた頃、各駅に行きつけの喫茶店なりカフェなりと、時間をつぶせる場所をもっていたのだが、溜池山王に関して言うと、近くに姉が勤務している会社があったので、時折ふらりと姉を訪ねてはお茶をご馳走になった。けれどもう、その姉もとうの昔に東京を引き払っており、滅多なことでは会えない。

外堀通りから望む大きなビルを見やると、姉の不在と「たくさんのときが流れた」現実を実感し、ふわりと感傷がつつむ。

脚を棒にして都内を歩き回っていた時代、混沌とした世界に心のうちで悪態をつきながらそれでもやっぱり若さがあった。

喪失の記憶だ。




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