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極めて個人的な記録

以前であれば、この著作物のことを書くことはためらわれたと思うが、そもそもひとつの作品を前にしたときそれは、いつだって「一対一」のものなのだと気づいた。二階堂奥歯さんの『八本脚の蝶』に初めて触れたのは、2006年で既に彼女自身の手による最後の報告から3年ほどが過ぎていた。

Webで公開されていた日記が、彼女の自死後に書籍となり、2016年に増刷されたことで、数年おきに少なからず話題が繰り返されているが、わたしが2006年に興味を持ったのは「著者が自死していて日記が閲覧できる」状態だったというのぞき見精神からであったことは、恥ずかしながら否定できない。そのため、最後の記録である自殺予告と、親しい人への遺書を読み、そこから少しさかのぼって目を通したくらいであった。単純に「毒気にやられる」という恐怖を感じたからだ。そしてそっと記憶に封印し、数年ごとに検索しては読み進めようとするが…の繰り返しをしていた。

ところが、今回急に思い立って久しぶりに『八本脚の蝶』のサイトを開き、日記の開始された一番最初から改めて読んでみることができた。最初に訪問してから実に14年ほども経過している。改めてしみじみと痛感したのだが、作品というものには自分にとって読むべきとき、タイミングというものがあるのだということ。作者の知性に、わたしは14年経ってやっと入り口に立つことを許されたのだと思った。そして何よりも不思議なことだが、混沌とした絶望と、物語を終わらせることを唯一最上の光と見出して虚空に飛んだ故人の記録に、わたしは闇を抜けるような希望をもらったのだ。

彼女は愛して育ててくれた家族へ、切実なまでに訴える。「娘の死について、何かできたことはなかったかと悩まないでほしい。自分の性格は自分がつくったものだ。だからこうなることもすべて自分のせいであり、あなたがたの問題ではないのだ」と、最後の時に語り掛けるすべてが、最初から日記を読んでいくとよく理解できた。そうなのだ、この人は普通の人間がその年齢なりに到達できる活字世界から与えられる思索の許容量を宇宙レベルで越えてしまい、それらによって自らを作った創造主であった。日記では「神」を模索し、それが宗教上の神ではなかったかもしれないが、その姿はまごうかたなき殉教者であった。

社会人になってからは年に365冊、大学時代はその倍、その前はさらに3倍(※記憶を頼りにしており3倍であったか不明瞭)の読書をしてきたという。ひりひりするほど鋭い感受性の持ち主が、そのようにして活字の世界に生きてしまったら、「体験」によって理解していく経験値は圧倒的に減る。そして彼女の知性は、人が通常、得た知識を体験によって知恵、叡智にしていくものだとしたら、体験なくして活字のみによって自身の知恵にできてしまった。ここが、おそらくこの人の最大の悲劇的な点であり、かつ信じがたいほどの才能であった。

25歳の前途ある若い女性が、自死を選んだ理由を無関係のわたしが解説するのはナンセンスだし重要なことはそこではなかった。わたしにとって鮮烈だったのは、「わたしの性格はわたしが作ったものなの。だから死ぬんだけどそれもわたしがつくった性格故であり、誰も介在させない」という宣言だ。そうか……。ということは、今のわたしも、わたしが作ったものなのではないか。経験や体験、出会いや思い出、実績などすべてが自分をつくってきたが、「今」のわたしはあまりにもそれにとらわれていた気がするのだ。

つくってきた・つくられてきた「わたし」に捕虜のようになっていて、新しい解釈を許さないほど狭い世界に生きていることを理解した。もうそんなことやっちゃいけない、それはわたしに望まれていない、わたしがやるべきではない、わたしにはもうできることなんかないのではないか…。これらすべてが、わたしがこれまでに作り上げてきたものなのだと気づいたとき、一瞬のうちに鉄格子の戸が開放されたのだ!

つくってきた自己に収監されていることの馬鹿馬鹿しさに気づいたとき、自由になる、そもそも自由であることを思い出すことになった。そして決意したのだ。つくってきた自己にこんなに苦しめられて、にっちもさっちもいかないのであれば、もっとつくり変えていけばいいのだ、と。そして生きている限り、それをしていいのだということ。結局、第三者因子が自己をつくっているのではなかった。概念化、定義化していくのはあくまで自分自身なのだった。

今はじめて、二階堂奥歯さんの生きた記録に向き合うことができたと思う。そして彼女の想像もできないほどの苦しんだ日々が、見も知らぬ別の誰かの生を救うとは、もしかしたら彼女への何よりものはなむけとなるのではないか、と僭越ながらも思ったのだった。

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