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「桃山 天下人の100年」展@東京国立博物館

 今年も東京国立博物館の秋の特別展がやってきた。今年の展覧会はズバリ「桃山」展。日本の歴史の中でも特に人気のある戦国時代の美術。狩野永徳を代表とする”豪壮華麗”な美術、千利休による茶の湯の大成などは、葛飾北斎の「富岳三十六景」に次いで、”日本の美”的なるものを象徴しているのではないだろうか。少なくとも日本人が思う「世界に示しやすい日本美術の粋」を体現した時代だろう。

 という書き出しになったも、恐らく本展が東京オリンピックで湧く今年、国内外からやって来た観光客を当て込んだ企画展だったのだろうと推察するからだ。テーマの分かりやすさ(単純さ)、国宝・重文などメジャーどころの作品が目白押しなことからもその狙いは透けて見える。 
 しかし、残念ながらその目論見は新型コロナウイルスによって大きく崩れてしまった。”三密”を避けるための日時指定制を導入せざるを得なくなり、それによりチケット料金の単価が一般2400円と高額になった。本来であれば、コアな歴史(武将)好き、武具・刀剣好き、美術好きはもちろん、「何となく凄そう」「教科書で見たことある!」「今盛り上がっているから」という理由で来る客層も総ざらいしたかっただろうが、高めの料金設定と日時指定制の煩わしさによって大分篩にかけられたことだろう。かくいう私も11月下旬、いよいよ閉幕が近づいてきた頃にようやく訪れた(「唐獅子図屏風」の展示に合わせてという理由もある)。
 本当なら長蛇の列ができていたであろう平成館のエントランスは、何の喧騒もない。こんな名作だらけの展覧会を人に押しつぶされることなく観ることができる贅沢な喜びを持つ反面、閑散としたエントランスに物足りなさも感じたことは事実だ。

 会期変更によって夏に開催された「きもの」展がコロナ禍前には準備が済んでいたと考えると、この「桃山」展が、”新しい生活様式”が提唱されてからの本格的な東博での展覧会となる。もちろん展示状況がコロナ禍によって本来の予定からどう変更になったのかなど一観客の私には知る由もないのだが、結論から言うと「最高食材を大まかに味付けした展覧会」というのが私の率直な感想だ。コロナ禍という思いがけず起こった厳しい状況下における本展の展示について思うところを書き綴りたい。

1.構成

 政治史における安土桃山時代は、1573年の室町幕府の滅亡から1603年の江戸幕府開府までの30年間をさします。この30年間に花開いた、日本美術史上もっとも豪壮で華麗な「桃山美術」を中心に、室町時代末から江戸時代初期にかけて移り変わる日本人の美意識を数々の名品によってご紹介します。
 (中略)
 激動の時代に、「日本人」がどう生き、どのように文化が形作られていったのか、約100年間の美術作品を一堂に集め概観することで、日本美術史のなかでも特筆される変革の時代の「心と形」を考える展覧会です。 
本展HPより一部抜粋)

 本展では「安土桃山時代」の頃だけでなく、その時に華麗に花開く桃山美術の土台ともなる「室町時代末期」から、太平の世となった「江戸初期初期」までを扱い、その中での美意識の変化や桃山美術の魅力を示す。

 会場の大まかな構成は、前半の第1会場に「1章 桃山の精髄」「2章 変革期の100年」、後半の第2会場で「3章 桃山前夜」「4章 茶の湯の大成」「5章 桃山の成熟」「6章 武将の装い」「7章 太平の世へ」となっている。展覧会のポスターにもなっている狩野永徳「唐獅子図屏風」をはじめ、長谷川等伯「松林図屏風」など、桃山美術を象徴する作品は第1章で早々に観ることができる。体感としては、前半がハイライト展示、後半が通史を辿る展示と言えるだろう。

 この章立てを見る限りであれば別段気になることはないのだが、実際の展示を見ると、展示されているほぼ全ての作品が”名品”、言い換えれば他の美術館(展覧会)ではそれが1つの目玉展示になるレベルの作品だらけなので、「前半にハイライト、後半に通史」という区分けをする必要はなく、素直に「室町末期⇒桃山⇒江戸初期」の流れの中で、適度なところでハイライトofハイライトな作品を置いても良かったのではないかと感じる。
 そのような素直な展示をせず、まず名品ドーン!という感じで永徳の「唐獅子図屏風」、等伯の「松林図屏風」と智積院の楓図壁貼付の3点が横並びで展示されていたのは、冒頭にも述べたように本来であれば会場内は人で溢れかえっており、そうした環境下の中で「あの名作を一度に見た!!」という(分かりやすい)感動を提供することが想定されていたのだろうと考える。混雑した環境で細々とした説明を読みながらの展開は疲れるし感動も感じにくい。またそうした環境であるからこそ、この3点が並ぶ光景は圧倒させてくれただろう。
 しかし、人がいないのだ!日時指定制のおかげで会場内は幸か不幸か快適なのだ!!「唐獅子図屏風」の前に人が1~2人しかいないとは!その贅沢さが2400円という価格の価値と言えばそうなのだが、故にこの3点を横並びで展示することにどことなく「強引さ」と「勿体なさ」を感じてしまったことも事実。恐らく本来の想定では人で溢れ、この3点の展示に行くまでにもそれなりの時間がかかるため、その間に盛り上がる準備(展覧会の中、桃山の世界に入り込むこと)ができているので、このエリアに来た時には「おぉこれこれ!」と盛り上がるのだろうが、日時指定制で最初の展示室もサクサク見ることができるので、早々にハイライトが来る、例えるなら2時間の映画で冒頭15分で最大の見せ場のシーンが来た感じだ。悪いわけではないが、なんというか…うん、勿体無い気がした。

 2章、そして後半の展示も「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」「狩野派」「千利休」「桃山茶陶」「甲冑(武具)」…と桃山文化を代表するトピックが続くが、どこまで行っても「トピックが続く」だけに感じた。つまり、それぞれのトピックがうまく展覧会全体としてまとまっていないのだ。
  これは展示キャプションによるところが大きいだろう。数年前より国立の博物館・美術館では展示室内のキャプションや音声ガイドを日英中韓の4言語対応することが求められており、東博では全言語のキャプションを表示するが故に日本語解説の分量がどんどん少なくなってきている。名品中の名品がピンポイントでどんどん展示される一方で、それらの解説が非常にあっさりなため、作品と作品の間をつなぐ、あるいは展覧会全体のストーリーが見えづらかったように思う。

2.心に残った作品

展示全体の構成などには上記のように残念に思う点もあるが、やはり作品自体は1つ1つのエネルギーがすごいので見応えは十分。その中でも特に心に残った作品をいくつか挙げたい。

①狩野永徳「唐獅子図屏風」
 この作品を観たいがために会期の後半を狙って訪れた。教科書でもお馴染みの「桃山美術と言えばこれ、狩野永徳と言えばこれ!」と誰しもが思う作品だろう。私も以前に一度見た事があるはずだったのだが、今回改めて観て、まずそのサイズの大きさに驚いた。こんなに大きい作品だっただなんて…。恐らく以前見た時はごった返す人で揉まれながら(あるいは人の頭越し)の鑑賞だったので、上から下までを一望することができなかったか、初めて相まみえた感動が優先して作品それ自体をちゃんと観れていなかったのだろう。初見のような驚きであった。
 じっくり作品を観ることができる環境は、様々な発見をもたらしてくれた。例えば、2頭の唐獅子は実物大のような大きさであり、ちょうど白っぽい毛並みの獅子の口元が観てる人の頭の位置に来る。それ故に人の頭など一口で嚙み砕けるような力強さと恐ろしさ、たてがみや尾の渦巻く毛並みがまるでゴッホの「星月夜」や糸杉の表現のようにも見え、渦巻きが生命のエネルギーの表現のようであることなど、とりとめもないことだが「名作を見た」という事に終わらず、作品それ自体を存分に味わうことができた。

②長谷川等伯「楓図壁貼付」
 豊臣秀吉の遺児・捨松の菩提を弔うために建てられた智積院の壁を飾るため長谷川等伯が描いた作品で、等伯の息子・久蔵が描いた桜図と対になる作品だ。私の中のベストオブ等伯は「松林図屏風」であり、上記の通り本展でも展示されていたのだが、今回はとりわけこちらの楓図が胸に染みた。
 というのも、今年は「死」というものを考えさせられることが多い一年だった。コロナによって世界中で多くの人が亡くなり、そうした量的な恐怖もさることながら、若い者、前途洋々に見えた者などが自ら命を絶ったというニュースも相次ぎ、世の儚さ、人の「生」とは結局これほどまでにあっけないのか、虚しいのか、と思わずにはいられない日々が続いた。そうした思いがあるからこそ、金地の画面いっぱいに燦然と輝くように色づく紅葉の様相が、「儚い生」の輝きのようにも思え、込み上げてくるものがあった。考えれば、桜も紅葉も1つ1つの花(葉)は小さいがその夥しい数によって壮大な景色を作り上げる。そしてどちらもわずかな間に咲き(色づき)、あっという間に散ってしまう。1つ1の花(葉)はまるで我々人間一人一人を象徴しているようではないか!こうした感想は作品それ自体の解釈からは離れてしまうだろうが、そうした思いを投影することも許容してくれる器の作品であった。

③狩野元信、永徳、探幽の花鳥図屏風
 作品もさることながら、展示の仕方としてここは面白いなと思えたのが、室町末期の絵師で狩野派の礎を築いた狩野元信、桃山時代に狩野派として天下人に愛された永徳、激動の世を経て江戸時代になり狩野派の確固たる地位を固めた探幽。それぞれの時代を代表する3人の花鳥図屏風を並べて比較できる贅沢は本展だからこそではあった。
 この第2章では、まず武将の肖像画(足利義輝、信長、秀吉、家康)があり、美術における変遷という事で、小判や茶道具、そして上記の各時代の狩野派の作品、という流れであった。個人的にはこちらを第1章にして、せめて第1章の「桃山の精髄」が2章であっても良かったのではとも思う。
 さて、元信、永徳、探幽の三者三様の花鳥画であるが、元信の花鳥画は他の元信の大画面作品に比べたら割と柔らかい筆遣いであったと思う。後半にも展示されていた元信の代表作である大徳寺大仙院の「四季花鳥図」が岩肌や樹木の幹などの描き込みや構築的な画面、漢画らしい堅固さというのが抑えられた柔らかい印象の花鳥画であった。その中でも二次元の画面の中に三次元的世界を作り上げようとする元信の感性(室町時代の美意識)というものは体現されていた。
 続く永徳の花鳥画では、元信から比べるとより平面的で「画面の中でどう見せるか」という点に意識が向いているんだろうなというのが感じられる。それが最終的には「唐獅子図屏風」や「檜図屏風」といった”豪壮華麗”な画面へとつながっていくことが想像できる。
  そして、探幽になるとさらに引き算がされて、空間を描くことすらしなくなる。永徳の頃は元信に比べて平面的な画面構成であるが、それでも画面の中に3次元空間を作り出すことは放棄していないが、探幽は描くモチーフを最大限省略し、大きな余白を残す。同じ画派でありながらここまで手法が変わっていくところが面白いし、どちらが優れているということではなく、時代の変化、美意識の変化による違いが如実に判る。

 その他、狩野山楽・山雪、樂茶碗や志野茶碗など私好みの作品が多数展示されているがここでは割愛する。

3.コロナ禍における企画展の今後…

 今回の感想はあくまでも展示室内で観た時に感じた事のみなので、図録などを見れば私が残念に感じた点などは十分フォローされているのかもしれない。「桃山展」の感想(意見)として、博物館がこうした”客寄せパンダ”的な安易な展示をするのはどうか、という趣旨の意見もある。その意見も十二分に理解できる一方、本来オリンピックが開催されていた事を踏まえて日本美術に詳しくない層(外国人含め)にこの機会に日本美術を知ってもらう機会にするという意味では、こういう展覧会があってもいいとは思う。しかし、こういう展示の仕方が続くのは面白くないので、今後の展覧会(展示)に注目したい。

 ちなみに「特別展で2400円は高いな」問題は、常設展(単体の場合一般は1000円)も見ることができると考えれば、「常設1000円+特別展1400円」という内訳で認識すればそれほど高くも感じない。なので東博は少なくとも常設展も併せて観る事前提で行くことをお勧めするし、そもそも何円の設定であってもぜひそうしてほしい!(逆に博物館サイドは、そのことをもっとアピールしてもいいんじゃないかなと思う。東博の所蔵作品の質と量を考えたら、特別展と関連する作品を出すこともできると思うので、企画展と常設展の連携をもっと強化して、企画展から常設展に行く流れをもっと確立できれば、高額ゆえに断念するケースは少しは解消されるのではないだろうか)

 しばらくは美術館でも日時指定制が続くことになり、料金単価の高額化は避けられないだろうし、展示室内のキャプションや展示の流れもそれを加味していくことになるだろう。「人数制限が避けられない⇒単価上げるしかない⇒分かりやすい目玉作品で呼び込むしかない」というループに陥って、既に価値体系が確立されたものをその通りに展示する方向に進まないかは心配ではあるが、東博の力をもってすれば私が感じたことなど杞憂に過ぎなかったと思わせてほしい。





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