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【展覧会小説】湖畔

僕は数時間かけてようやくこの鏡池に辿り着いた。何のためか。死ぬためだ。澄み切った湖がまるで鏡のように周囲の景色を映すことから、この湖は”鏡池”と呼ばれている。昔雑誌でその光景を見た時、なぜか「死ぬならこの湖に沈みたい」と思った。その時は特に「死にたい」と思っていた訳でもなかったのにだ。
 しかし今日、僕はその時の思いを実行に移す。今となってみればあの時に思ったのは予言、もしくは予知夢のようなものだと思っている。その証拠に、僕は人生で初めて訪れる場所なのにスマートフォンで検索することなくここまで来た。行くべき場所として知っていたのだ。

 鏡池は雑誌で見た通り、澄み切った水面に周囲の木々や山々の連なりを映していた。しかし、今はまだ明るい。死ぬのは夜だ。闇が訪れ、いよいよ彼岸と此岸の境が不明瞭となった時、僕は彼岸へ行くのだ。

*******

 空がいやに明るい。湖の畔で一人寝そべって空を眺めた満月が煌々と光り、都会ではほとんど見えない星々が、怖いほどに輝いていた。初めて肉眼で天の川を見た。じっと見つめていると、天地が逆さまになったような錯覚さえ覚えた。この身をこの世界全体を覆い、その頭上で瞬く星々は「こんな素晴らしい世界を生きよう」という呑気なメッセージを意味していない。むしろ、「さぁこちらにおいで」とけし掛けられているようだ。

ーー君は、死ぬつもりなのか?

 不意にかけられた言葉に思わず「ひゃっ」と声を上げてしまった。空気の澄んだ夜の湖畔に、間抜けな声が響いた。振り向くと一人の男が立っていた。暗くてよく見えないが20代後半か30代前半位で、くたびれたシャツにスラックス姿だった。少なくとも週末のキャンプを楽しむといった健全な目的でここにいるようには思えなかった。

「驚かさないでくれ…。そうだ、死ぬつもりだ。だから邪魔しないでくれ。」

ーー邪魔などしやしないさ。ただ上手く死ねる方法をみておきたいんだ。「君も死ぬつもりなのか。」

ーーつもりじゃない。したんだ。だけど死ねなかった。
「助けられたのか?」

ーーいいや、なぜか死ねなかった。最後の最後でこの世に未練ができてしまったからな。無意識に助かろうと思ってしまったのかもしれない。

「未練?」

ーーあぁ。恋人と一緒にここで死のうと約束したんだ。10月7日の8時に死のうと。それなのに、彼女は来なかった。怖くなったのかもしれない。俺はそれでもよかった。それなら一人で死のうと。そして一人でこの湖の中に入った…だけど、気づいたら岸辺にいた。死ねなかったんだ。

 10月7日は今日だ。男は話しながら草をかき分けこちらに近づき、僕の隣に並んだ。そして湖の真ん中を見つめ始めた。その横顔を見て僕もまた同じように湖を眺めながら応えた。

「同じ日に同じ場所で死のうと思うとは、奇遇だな。」

ーーそうだな。本当であれば君の前に俺たちの死体があるはずだったんだけどね。君の死んでいく様子を参考にさせてもらうよ。

「死に方をじろじろと見られては死ににくい。」

ーーそりゃそうだ。

「しかし、今どき恋人同士で心中とは。どういう経緯か聞いてもいいか。」

ーー流行らないか。

「心中が流行る、流行らないという類のものかはわからないが、僕の中ではあまりピンと来なくてね。」

ーーそうか。別に大した理由じゃない。二人で生きていくことができなかっただけさ。彼女は由緒ある家の娘で、俺は単なる田舎生まれの凡庸な男だった。不釣合いの恋愛に未来がなかったというだけのことだ。

「その不釣合いのカップルはどうやって出会ったんだ?」

ーー出会ったのは美術館の中だった。俺がずっと一つの絵の前で食い入るように眺めていたら、同じように絵に目を奪われていた彼女がぶつかってきた。そしてしばらく二人でずっとその絵の前に並んでいた。恐らく、その光景だけをみれば既に恋人同士のように見えただろうね。そして、彼女の方から話しかけてきたんだ。”この絵は鏡池みたいですよね”って。

「鏡池?」

ーーそう、鏡池。その絵はまさにこの湖畔のような絵だった。池だか湖の水面が鏡のように木々を映していた。だから俺たちの死に場所は当然、鏡池だった。出会った時に二人が目にした光景、そんな場所で二人で死んでいく。悪くない最期だろ?

「そうだな。悪くない。僕も雑誌でここの写真を見た時、”ここで死にたい”と思った。」

ーー君も同類だな。俺たちは美術館を出た後カフェでお茶をした。それから二人で出かけるようになった。しかし、さっきも言った通り彼女は由緒ある家の人間だ。しばらくすると彼女の両親がうちまで来て”金輪際娘には会うな”と言ってきた。娘に悪い虫がつかないように大事に育てたのに、俺のような男に引っかかるなんて、と散々に言われた。

「それで心中なのか。」

ーー殺したのさ。彼女の父親をね。

あまりに自然に、淡々と男の口から出てきた”殺した”という言葉が一瞬理解できず、声すら出なかった。不自然にできた無言の間に気づき、男はこちらを向いた。そしておそらく目を真ん丸にしていたであろう僕を見てにやりと笑った。

ーー驚いたかい?

 男は目を細めてじっとりの僕を見つめてきた。”殺されるかもしれない”という恐怖を感じた。僕は死ぬためにここにいる。だから死ぬこと自体に怯えてなどいないが、僕は”死にたい”のだ。”殺されたい”訳ではない。僕がどのように返事をすべきか困惑しているのを察した男はふっと笑い、ようやくその粘っこい視線を緩め、顔を湖畔に戻した。

ーー怖がらせて悪かったな。怯える必要はない。殺したのは過失だ。殺したくて殺したんじゃない。別れようとしない俺たちの態度に怒った彼女の父親が俺を殴ろうとした。それを彼女が止めようとして、父親が誤って彼女を殴ってしまった。それに俺がキレて父親を思いっきり突き飛ばしたら、壁に頭を強打してね、そのまま逝ってしまった。まぁそれでも罪は罪だ。彼女の母親も見ているから隠すこともできない。幸い母親があまりの出来事に錯乱してね、父親の名前を呼び続けて俺を人殺しと罵るばかりで、警察に通報するとか救急車を呼ぶとかっていう冷静な行動がとれなかった。こうなった以上俺たちに穏やかな幸せが待っていることはない。俺たちは二人で逃げた。そして、心中することを決めた。

「そうか。それは気の毒な話だな。でもどうして離れ離れでこの湖に来るんだ?二人で逃げたのならそのまま一緒に来れなかったのか?」

ーーそこが出自の差だ。俺だったらどうせ死ぬんだ、何もかも投げ出す。ただ彼女は育ちが良い。自分と自分の男のせいで死んだ父親をちゃんと見送りたいと言い出した。そして突如一人になってしまった母親が心配だし、家柄上、葬式に自分がいないことが余計に死んだ父親や残された母親の顔に泥を塗るから、と。だから俺は一人で身を隠し、彼女は一旦家に戻って一通りのことを済ませ、そして改めて二人で死のうと決めた。その約束の日が10月7日だった。しかし……

「彼女は来なかった。」

ーーそういう事だ。

「寂しくはなかったか?」

ーー最初にも言ったが、一人ならそれでもよかった。強がりじゃない。彼女に非がある訳じゃないからな。あの時俺がキレなければ、キレたとしたってもっと上手く立ち回っていれば少なくとも親父さんが死ぬことはなかった。だから彼女が俺を裏切ったとしても仕方がない。俺はボートで一人湖の真ん中まで行って、そこで身を投げた…つもりだったんだがな。

 男は自分が今だ生きていることを心の底から恥ずかしく思っているようだった。

「そうか……彼女は本当に君を裏切ったのだろうか。」

ーー家に戻るといった時、既に裏切るつもりだったのかもしれないし、戻って冷静になった時に怖気づいてしまったのかもしれないし、流れに身を任せてそのまま家にいるのかもしれない。それならそれでいいんだ。ただ……

「ただ?」

ーー彼女が今どこにいるのか、それを知りたい。

*******

 僕はボートに乗って湖の中央まで来た。男と別れて、僕は僕の最期のための支度にとりかかった。と言ってもとりあえずボートに寝転んで星を眺めているだけだ。最初はこの湖に沈んで死にたいと思っていたが、こうも明るい星空を見ていると、このボートの上で死んでいくのもいいように思えてきた。僕の死に方は睡眠薬を大量に飲むことだ。溺死など試みたことがないが、小学生の時の水泳の授業を思い出すだけでも、意識がある状態で自ら水の中に居続けるのは苦痛極まりない。本能が助かろうとしてしまって死ねないだろう。ならば、睡眠薬で意識が朦朧とした時に湖に飛び込むのが一番だと考えたのだ。

ーーあなたも死ぬつもりなの?

 僕は飛び起きた。ボートには女性が座っていた。突然現れた彼女の姿は半透明で一目で彼岸にいってしまった側の者だと感じた。恐怖はなかった。僕といい先ほどの男といい、そういう人が集まる場所なのだ。

「その質問は2回目だ。」

ーー2回目?

「ああ、ボートに乗る前、ある男にも聞かれた。その男も死ぬつもりだ。いや、死のうとして死ねなかったと言っていたな。恋人とここで心中するつもりだったんだそうだ。」

ーー明さん!?明さんに会ったの?明さんは今どこにいるの??

 彼女は突然声を上げて聞いてきた。思わず僕の腕に掴みかかろうとしたが、その手はすっかり僕の腕をすり抜けた。

「君があの男の恋人なのか?10月7日8時にここで死ぬと約束した?」

ーーええ、間違いないわ。明さん、ここに来ているの?どこで会ったの?私…約束の日にちゃんとここに来たのに、明さんはいなかったわ。あぁ私騙されたんだと失望したの。私のせいで面倒なことになって…私が明さんの人生を滅茶苦茶にしてしまった。そんな女と死ぬくらいなら、って心変わりされたんだと思って……でも、それも仕方ないなって。…それで、私一人で死ぬことにしたの。

「君が裏切ったんじゃないのか?」

ーー裏切るだなんて。明さんがそう言ってたの?
「いや、裏切ったと恨んでいる訳じゃない。仕方がないって。ただ、君の居場所がわからないことを未練に思っているようだ。だから一人で死のうとしても上手く死ねなったとね。」

ーーそんな…私はちゃんと来たのに。だからこうやってここにいるでしょ?

「そうだね。そして君はおそらくちゃんと死んだ。君はどうやって死んだんだ?ここに出てくるという事はボートの上ででも死んだのか。」

ーーそうよ。このボートに寝そべって毒を飲んだの。ねぇ、明さんに会わせて。多分彼の姿を一目見ることができたら私、ちゃんと死ねる。

*******

 僕は再び湖畔を歩いた。自分が死ぬはずだったのに、なぜか恋人への未練で死ねなかった男と、恋人への未練で死んでも成仏できない女の仲人をしている。僕は先ほど男と居た辺りを歩いて「おーい、出てこい。君の恋人はちゃんと来ていたぞー」と声を掛けた。しかし一切の返事はない。

「おーい。いるんだろ?僕が死ぬのを見ておくんじゃなかったのか?」

 何一つ返事はなかった。どうなっているんだ、と思った。10分ほど辺りをあるいて再び湖の中央に目をやった。月明かりがぼんやりと周囲の木々を照らす。夜だというのに水面には天地が逆さになった世界がはっきりと映っている。
 ふと気づくと月明かりの真下、ちょうど湖の中央の辺りにボートが一艘浮かんでいた。先ほどまで僕が乗っていたボートだ。だれも漕ぎ手がいないのにどうやって湖の真ん中まで行ったのか。僕は不思議に思ってボートを眺めた。いや、正確にはボートの真下の水面を眺めた。そこにはボートの上で並んで立つ男女が映っていた。

「そうか、君もいっていたのか。」

 この世で幸せな形で結ばれることのなかった二人は、月明かりに照らされた水の下でユラユラと揺らめき、やがて一つに重なって水の中に溶けていった。僕は死ぬのを諦めた。ようやく出会えたのだ、邪魔をしたくない。

 だから僕は改めてここに来たという訳だ。これで僕の話はお終いだ。

 さぁ、君の話を聞かせてくれ。君はなぜここに来たんだ。

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この小説は、東京国立近代美術館で開催されている「ピーター・ドイグ展」から着想を得て作った物語です。「ピーター・ドイグ展」の概要・感想はこちらの記事をご覧ください。


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