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8月のアボカド《 2 》

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突然始まった悪阻つわりの影響でスイがアボカド以外のものを受け付けなくなったので、キッチンカウンターの籠の中には、黒の緑のアボカドが、ごろごろと常備されるようになった。

「どれくらい食べられそう?」

夕方になって部屋から出てきたスイに、イズミがキッチンから声を掛ける。スイはダイニングを通り過ぎてソファーに腰を下ろし、そのまま静かに横たわった。
血の気が引いて黄土色になった脹脛ふくらはぎを重ねて、体を丸く縮こめる。

「はんぶん」
「これって何もかけなくていいの?」
「うん、そのまま食べる」

夕食の支度を中断して、イズミは皮の黒いアボカドをひとつ手に取った。
ナイフを果実に入れてぐるりと回し、半分に割ったアボカドをまな板の上に仰向けに並べる。果実の種のついたものとそうでないもの。イズミの手が一瞬止まる。同じ形。同じ果肉。同じ、種のためのうつろ。アボカドの、片割れの皮を剥いて縦長に薄く切り、イズミは皿に盛ってフォークを添える。

「ハシジマさんから手紙来てるよ」

切ったアボカドとエアメールをソファー前のテーブルに置くと、スイはゆっくりと起き上がって封筒に手を伸ばした。
水分を失った長い髪が、痩けた肩にだらりと垂れる。
文面を読み、便せんを開いたまま置き、アボカドには手をつけずにスイはソファーに深くもたれこむ。

「ハシジマさん、予定通り、九月には帰国できそうだって」
「よかったね。帰ってきたらすぐ籍入れるんでしょ?」
「うん」
「ハシジマスイ」
「変なの」
「そうでもないよ」

キッチンに戻り、まな板についたアボカドを水で流し、イズミはミョウガを細く切り出してゆく。
切り口から次々に、土に埋まった石鹸みたいな匂いが立つ。しゃき、しゃき、と短く放たれた音はすぐに匂いに姿を変えて、ミョウガの縁から溢れ広がる。

「さっきね、スイが寝てるときにお母さんから電話あったよ」
「なんて?」
「くれぐれも安静にしてなさいって。あと、向こうは、もう梅雨に入ったって」
「へえ」
「あと、お父さんが暴走して雛人形を予約したって」
「は? まだ性別もわかんないのに何やってんの?」

馬鹿にしたような口調で言い、けれどすぐに脱力して口元を弛ませ、次の瞬間スイの手のひらは腹の上にあてがわれる。
悪阻で痩せてくたびれた体から原始的な匂いのするあたたかみが立ちのぼり、ミョウガを切っていたイズミが黒目だけを静かに持ち上げる。

ぶしゅうと低い音を立てて、炊飯器から熱い米の蒸気が吐き出された。

スイがふとイズミに向き直る。
生きた匂いの濃く立ち籠めるキッチンで、あたたかみに和らいだリビングで、瞬きもせず、二人は真顔で見つめ合う。

一樹の手は、体温が高くて乾いている。
イズミの手よりも分厚くて固くて、指の付け根にはハートの形のほくろがある。

十時過ぎに家に帰ってくる一樹の、いつも始めに手に触れて、思い切り引っ張ってぶら下がって、それから膝に座って食卓につく。
イサキの刺身。オクラのお浸し。ミョウガとネギの冷奴。
一人分の夕食の向こうに、グラスを手にしたイズミが腰掛けた。

細く開いた窓から夜風が入る。カーテンの裾だけがほんの僅かに、膨らんだり縮んだりを繰り返す。夜の風は、植物の茎の湿ったような匂いがする。

「スイがきてから、似たような食事ばっかりでごめんね。あの子油の匂いが駄目みたいで」 

縁まで氷をたっぷり入れた、切り子のロックグラスに焼酎の瓶を傾けてイズミが言う。注がれた焼酎の熱に触れて、ぱきぱきと氷が弾ける。

「晩飯の刺身率が上がって、俺は嬉しいけどね」
「でもとんかつとか、てんぷらとか、食べたくならない?」
「たまにね。でもそういう日は昼に食べてるよ」
「そう」
「イズミも、食いたいときは我慢しないで外に食いに出ちゃえばいいんだよ。スイちゃんに断ってさ」
「そうだけど」

青く切れ込みの入ったグラスの中で、氷の隙間を縫って液体が揺るぐ。

「やっぱりさ、家の中に人が一人増えると違うよね」
「そりゃ話し相手がいると楽しいだろー、姉妹だし気兼ねないし」
「話し相手っていうか、うん、まぁね」

イズミはグラスに口をつけたまま小さく頷いて、せり上がるものを押し込めるみたいに、ゆっくりと焼酎を飲み込んだ。

嵩の減ったグラスをテーブル戻し、表情をほぐして一樹に向く。子供をあやすような顔を作ったイズミの、けれど首や鎖骨のあたりはほんの少し強ばっている。
解れたふりをして、籠らせている。
籠らせていることを一樹は知らない。
泣いたり、しょんぼりしていたり、イズミの悲しい顔はそういう顔なのだと、たぶん一樹は決め込んでいる。

食事を終えて一樹が風呂に立ったのを見送って、イズミは一人食卓に残った。結露のだらしなく垂れる切り子グラスに、もう一度焼酎を注ぎ入れる。豆みたいに小さくなった氷が、きゅうきゅう音を立てながら、ぬるい焼酎に輪郭を奪われてゆく。

注いだ酒を、けれどイズミは飲まなかった。
風向きが変わり、カーテンが呼吸を完全に止める。浴室からはシャワーの音と一緒に、一樹の鼻唄が聞こえてくる。

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