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8月のアボカド《 5 》

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家に帰ると、リビングでスイがアルバムを広げていた。

「和室の本棚で見つけたの。ちっちゃいときのイズちゃん、かわいい」
買い物袋をキッチンに置き、イズミはソファーの後ろから古いアルバムを覗き込んだ。

「あぁこれね。結婚するときにお母さんに持ってけって言われて」
「えー私のも大阪引越したら送ってもらおうかな。あ、見てこれ、おじいちゃん若い」

はしゃぎながら、スイはページをめくってゆく。
腹ばいでぬいぐるみを握りしめるイズミ。オムツ一枚で仁王立ちをするイズミ。母親の膝に座って電車に乗るイズミ。父親におぶわれて海を眺めるイズミ。アルバムには、幼いイズミが溢れている。

アルバムを半分ほどめくったところで、大きく引き延ばされた遊園地の写真が現れた。父、母、その真ん中に、水玉のワンピースを着たイズミがいる。

「ここ、みんなでよく行ったよね」
自分の姿の映っていない家族写真を見てスイが言う。
「行った行った。スイに付き合ってコーヒーカップばっか乗って、お父さんゲボ吐いたことあったでしょ」

笑いながらイズミはソファーを離れてキッチンに戻り、買ったものを冷蔵庫にしまい始めた。

そんなことあったよねぇ。呟きながら、スイは一人でアルバムのページをめくる。初めての七五三を迎えたイズミ。祖父の家で犬を抱くイズミ。
スイは顔を上げて、イズミがリビングに背を向けているのをちらりと見て、そっとページを元に戻す。

快晴の遊園地で、父親の肩には子供用の赤いポシェットが掛けられ、母親は娘と揃いの形に髪を結い、イズミは二人としっかり手をつないで満面の笑みを向けている。

スイはアルバムを閉じて立ち上がり、思い切り伸びをした。

「ちょっと散歩してこようかな」
「え、今から? 昨日まで安静生活してたんだから近場にしときなよ。まだときどき出血あるんでしょ」
「ほとんどないよ。あったって、もう安定期入ったし」
「安定期って、もう心配ないって意味じゃないんだよ。生まれるまでは何が起こるかわからないんだから大事にしないと」
「うるさいな。知ったようなこと言わないでよ、こども生んだわけでもないくせに」

アボカドを籠に積んでいた、イズミの黒目の色が薄くなる。

なにそれ。呆然と放たれた声に一瞬スイは顔を上げ、けれどすぐに俯いて、黙ってキッチンを通り過ぎた。玄関をサンダルが這う音。家のドアが静かに閉まる。

足音が完全に聞こえなくなると、くっきりと浮き上がっていた、首筋が、鎖骨が、ゆるやかに力を失っていった。

買ってきたものをそれぞれの場所に納めて、イズミは無人のリビングに向かい、ソファーに浅く腰掛ける。テーブルに置かれた正方形の大きなアルバム。手を伸ばし、イズミは遊園地の写真を開いて、順にページを繰ってゆく。

祖父の家で犬を抱くイズミ。真剣に積み木を積むイズミ。従姉妹と縁側に並ぶイズミ。

ページをめくる。

母親の大きな腹に頬を当てるイズミ。クリスマスのプレゼントを抱えてはにかむイズミ。布団に寝かされた生まれたてのスイを覗き込むイズミ。

ページを、イズミは繰り続ける。

腹ばいで向かい合って人形を眺めるイズミとスイ。眠ったスイの乗るベビーカーを背伸びで押してゆくイズミ。遊園地のベンチの上で、抱きしめて、抱きしめられて、声を上げて笑っているイズミとスイ。

しんとしたリビングに、時計の針の音が響く。薄く開いた口を閉じてアルバムから手を離し、イズミはソファーに埋もれるみたいに、ゆっくりと倒れこむ。

イズミに初めて会った日は、祭だった。

露店が狭い路地にひしめいていて、どこにいても砂糖菓子とソースの匂いがした。そこにいる全員が、同じ方向へと歩いていた。歩いているのは、女のひとばかりだった。
綿飴。とうもろこし。かき氷。
みんな、露店で買ったものを手に歩いてゆく。
似たような店がいつまでも続き、どの露店も、女のひとでいっぱいだった。緩やかな流れに合わせて、イズミは祭の真ん中を歩いてゆく。イズミだけが、何も持たずに歩いている。

そのうち、ヨーヨーと射的に挟まれた無人の露店で、イズミは静かに立ち止まった。

露店には色水が並んでいる。横一列に並んだ透明なプラスチックのコップ。色水の中には金魚が入れられていた。淡いピンクやグリーンが僅かに波立ち、裸電球に照らされて、ゆらりと光る。

花火が上がる音がして、面をつけた女のひとたちがイズミの後ろを走り抜けた。

火薬の匂いが降りてくると、ピンクの色水の金魚が動かなくなった。にわかに人の流れが速くなる。花火は大きな音を立てて次々上がり、青の色水の金魚が死に、紫の色水の金魚が死ぬ。しゃがみこんで、イズミはコップを手に取って、死んだものを呆然と見つめた。始めから決められていたことを、イズミは知らない。決められていたことを、この先決められていることを、知っていてもイズミには伝えられない。

だんだんと、花火の音が遠くなる。色水の中でまたひとつ、腹を向けて金魚が浮かぶ。

踞るイズミの、頭を撫でて回りをうろうろと歩き回った。それから、側にいることを伝えようと思って、イズミをぎゅうと抱きしめた。
満月の蒸し暑い夜だった。あの祭から、もうすぐ二年が経つ。

日が落ちて薄暗くなったリビングの、電気が急について明るくなり、イズミはゆっくり目を開いた。
テーブルに広げられたアルバムの中で、小さな姉妹は相変わらず大きな口を開けて笑っている。体を起こすと、リビングの入り口に気をつけしたスイがいた。

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