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8月のアボカド《 6 》

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「おかえり」

声をかけて立ち上がり、突っ立っているスイを無言で避けてイズミはキッチンに入って行く。
乾麺が仕舞われている引き出しを手探り、パスタを取り出して鍋に水を張り、ガスコンロに火をつける。

しばらく立ち尽くしていたスイはやがてのろのろと歩いてカウンターに回りこみ、イズミの正面に立って、手に持っていた小さな袋を差し出した。

「これ、あげる」

ぽつりと言い、綺麗に包装された袋をカウンターに置く。伏せられた睫毛が湿っている。
スイの顔を一瞥し、それから持っていたパスタの束を置いて、イズミは袋のリボンを解いた。入っていたのは、青のビーズが一面に刺繍されたポーチだった。取り出したポーチを無表情で見下ろしていたイズミは、やがて小さく溜息を漏らして、頬を緩めてスイに向く。

「おねがいだから大事にしてよ」
囁くようにイズミが言う。赤く腫らした目を精一杯開いて、スイはイズミを見つめている。
「ママになれるんだからね、スイは」

ポーチを丁寧に包装紙の上に置いて、許すような諦めたような、やわらかな顔でイズミが笑う。
火にかけられた鍋の底に、小さな泡がぷつぷつと生まれていた。カウンターの上で青いビーズが、蛍光灯を返して光っている。

「荷造り進んでるー?」

読んでいた本から顔を上げて、イズミがリビングから声を掛けた。
強に設定された扇風機が左右に力強く首を降って、壁に掛けられた八月のカレンダーをばたばたと翻している。

昨日の妊婦検診で、スイは初めてイズミを診察室に呼び入れた。
いつもの病院で見る最後のエコーだった。白黒の画面の中で、スイの子どもが短い足をじたばた動かして真剣に腹を蹴り続ける様子を見て、二人は声を上げて笑っていた。

「スイー?」

返事がないのでイズミは本を伏せて立ち上がり、廊下の先にある和室に向かった。
襖をそっと引いて中を覗く。襖を開けた瞬間、正面にある窓から入り口に向かって風が流れ、カーテンがみるみる膨らんだ。部屋の隅にダンボールがひとつ。その隣に、まだ口の開いているものがひとつ。スイはこちらに背を向けて、横になって眠っている。

黙って襖を閉めようとして、足下に置かれた鞄が目に入り、イズミはその場にしゃがみこんだ。

スイがいつも持ち歩いている籠の鞄。財布と母子手帳に挟まれて、赤いビーズのポーチがのぞいている。しばらく眺めてイズミはゆっくり手を伸ばし、初めて見る、自分と揃いのポーチを取り出した。ポーチの口を開けてみる。中に入っていたのは、安産のお守りだった。

「イズちゃんはもう、一樹さんの家族のひとなんだよね」
ふいに、背中を向けたままスイが呟く。
「起きてたの?」
「私も大阪に行って、名字も変わって、ハシジマさんの家族のひとになるんだね。そしたら、私たちもうバラバラだね」

淡々と言い、スイは寝返りをうって仰向けになった。カーテンが膨らんだまま大きくはためく。持っていた赤いポーチを鞄に戻して、イズミはスイのすぐ側まで這い寄って、力の抜けた手を握りしめる。

「ねぇ」
「なに」
「オバ」
「は?」
「スイの子どもの、オバになるんでしょ、私。なんか一気に年取った気分」
大袈裟に溜息をついてみせ、つないだ手をそのままに、イズミがスイの隣に寝転がる。

窓の向こうに白く雲が立っている。熱い風に混じる、陽に焼かれた草木の匂い。天井を見つめながら、イズミが繋いだ手に力を込める。

「会いに行くから」 

イズミの声に、大人しく手を繋がれていたスイが、オバ、と呟いて小さく吹き出し、強く手を握り返す。

膨らんだのとそうでないのと、仰向けに畳に並ぶ二つの腹。まだからっぽの、イズミの腹に手のひらをあてて頬をつけ、それからゆっくりと目を閉じる。

次の日、スイは十二時の新幹線に乗って、ハシジマさんの待つ大阪に向かった。部屋に残されたダンボールは、宅急便で新居に送られた。玄関のすぐ脇にある和室は、しんとした、元の客間に姿を戻した。

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