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8月のアボカド《 1 》

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皮の下で、やわらかくて厚くてぬちりとしていて、アボカドは女のひとの体みたいだと僕は思う。

体温計の水銀がゆるゆると膨らんでゆくあいだ、イズミはいつも、ぼんやりと寝室の壁時計を見上げている。
微睡まどろみながら五分待ち、それから閉じていた唇を緩めて体温計を抜き、舌の根元の熱の残る、細い体温計の目盛りを読む。

三十六度三五分。

いつもよりも長く体温計を見つめたあと、ベット脇のチェストからボールペンとグラフを取り出して、今日の日付けで点を打ち、イズミは前日の点と線でつないだ。
折れ線グラフが、てっぺんの平らな山を描く。毎朝記入する、ひと月の体温の記録。チェストの中には二十枚の記入済みのグラフがある。折れ線は、一枚を除いて全て同じ形をしている。 

しばらく眺めてグラフを仕舞い、ベットの右端で気持ちよさそうに眠る一樹いつきを、表情のまだ眠ったままの顔で一瞥して、イズミはスリッパに足を通す。

「ここの病院、ネットのくちコミがすごいよかったんだ」

言いながら、スイは待合室の天井から吊り下げられた大きなモニター画面を見上げた。
診察カードの番号で表示された予約者たちの待ち状況、休診日のお知らせ、向日葵の花畑、時間をおいて順に画面が切り替わる。

「三ヶ月しか通えないのが残念だけど」
「まぁ三ヶ月だけでもいいじゃん。大阪行っても、いい産婦人科はいっぱいあるでしょ」 

イズミはそう言って笑い、側にあった雑誌のラックに手を伸ばした。
たまごクラブ。ベビモ。こどもMOE。
育児雑誌の後ろに隠れていたnon-noを取り出し、夏の新作ワンピースのページをめくる。赤。青。緑。カラフルなワンピースばかりが並んでいる。

イズミの好きな色は青。

思いながら、イズミとスイの間に立って、背伸びで雑誌をのぞきこむ。
ページをめくる、やわらかくて丸いイズミの親指。ふくふくした手のひら。しばらく眺めて、イズミの白い手の甲をぺたりと触る。

ピンクとクリーム色が基調の清潔な院内にいるのは女のひとばかりで、そのうちの半分は、腹が丸く膨らんでいる。
待合室の大きな窓。その向こう側で、桜の葉が陽を受けて濃く緑を放っている。同じ色を放つ葉はなく、黄みの青みのそれぞれの緑が、風が吹くたびにちかちかと光る。

黙って雑誌を読み始めたイズミを、一瞬鋭く横目に捉え、けれど何事もなかったかのようにスイはモニターに目線を戻した。
無造作にひとつにまとめられた黒髪。よく日に焼けた筋肉質な腕。骨張って乾燥した膝。
スイは妊婦というより野生のカンガルーみたいで、ピンクとクリーム色の病院からは、ほんの少し浮いている。

切迫流産を引き起こしたのをきっかけに、スイは先週から、同じ都内に住むイズミの家に居候をしている。
玄関のすぐ脇にある和室の客間、医者から厳しく安静を言い渡されているスイは、一日の殆どをその部屋の布団の上で過ごす。
妊婦検診には、イズミが付き添う。病院は家から車で二十分のところにある。

「病院に初めて来たときに、キソタイオンつけてますか?って聞かれたんだけど」
スイの声に、イズミが雑誌から顔を上げた。
「もし記録があれば持ってきてくださいって。なくても問題ないらしいけどね」
「ふぅん」
「普通の体温計より細かい目盛りのやつで計って記録するんだって。グラフみたいに」
「知ってるよ」
「なにそれ、毎朝そんなの計ってるひとなんていんの?」
「あれね、排卵日分かるし、妊娠したときは週数とか予定日とか計算しやすいらしい」
「へぇ。なんか、イズちゃんくわしいね。計ってるの?」

スイの声に、体温がすっと下がった気がして、甲に重ねていた手のひらを離してイズミを見上げた。
ポーン、と電子音が響き、カード番号がモニターに大きく表示される。
あ、私だ。呟いて、スイは椅子に手をついてゆっくりと立ち上がり、診察室に消えてゆく。

にんじんさーん、さーくらんもさん、しーたけさん、ぶどーさん。

待合室にいた小さな子供が、おべんとうばこの歌を歌い出した。調子の外れた歌声に、あちこちで小さく笑いが起こる。
ブドウじゃなくてゴボウでしょ。
腹を大きくした母親が言う。イズミの膝の上で、雑誌はそれ以上ページをめくられず、いつまでもしんと開いている。

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