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8月のアボカド《 3 》

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「男の子だって。エコーではっきり見えたみたい」

先週から急に膨らみ始めた腹を撫でながら、診察室から出てきたスイはそう言ってはにかんだ。

「もう分かったんだ、早いねぇ」
「名前考えなきゃ、男前になりそうなやつ」

機嫌よくイズミの隣に腰掛けて、スイは診察前に読んでいた育児雑誌を再び開く。
二人目を考えるタイミング。男女の産み分け法。
開かれたページに書かれた見出しを、イズミは横目で盗み見る。

「産み分けかー、もっと早く方法知ってたら、女の子狙ったのになー」
「そういうのって迷信でしょ」
「だって実際、成功談載ってるよ。ほら」
「成功とかじゃなくて、たまたまだと思うけど」
「そうかなー」

入り口の自動ドアが開くたびに、待合室に細く蝉の声が流れ込む。
ブラインドの隙間から縦長に切り取られた日差しが差し込んで、光を浴びた埃や塵が、そこだけきらきらと浮かび上がる。イズミが妊婦検診に付き添うのは今回で三度目になる。

スイの悪阻つわりは突然終わった。

いつも夕方までぐずぐず眠っているスイが、その日は珍しく午前中に起き出し、イズミが切ったアボカドに大量のマヨネーズをかけて食べ、バターとジャムを塗りたくった食パンを立て続けに三枚食べた。

悪阻が終わってから、スイは一日五食取る。アボカドは相変わらず、いつもキッチンの籠に盛られている。

会計に呼ばれるまで、スイは真剣に雑誌の記事を読んでいた。
院内に小さく流れるクラシック。閉め切られた窓の向こう、隣の病棟から母親を呼ぶ声が僅かに聞こえる。切迫流産の症状が和らぎ、経過も順調だったため、二週間ごとに行っていた検診が次回は四週間後になった。

家に戻り、帰り道にスイの希望で買ったモンブランを二つ、イズミはダイニングに丁寧に並べた。

冷蔵庫を開けて少し迷って、アイスコーヒーではなく麦茶を取り出す。スイは行儀よく席について、イズミが座るのを待っている。

「小学生のとき、一回だけ、二人だけで夜まで留守番したことあったでしょ」
つやつやした栗を見つめながらスイが口を開く。
「あのとき、イズちゃんとおこづかい出し合って、お父さんたちに内緒でケーキ買いにいったんだよ」
「そうだっけ」
「誕生日じゃないのに二人ともろうそく立てて。部屋暗くして。すごいわくわくした」
「えぇー、覚えてないなぁ」

麦茶を置いて椅子を引く。スイは相変わらず真剣な顔で、目の前のケーキをじっと見ている。

「ここにいると、イズちゃんと留守番してるみたいな気持ちになる」
「そう?」
「あのときから、時間経ってないみたい」
「そうかなー」
「イズちゃん」
「なに」
「こどもって、母親のおなかを選んでくるんだって」
フォークをつかんだイズミの手が止まる。
「それで?」
「べつに。それだけ」

言いながら、スイがゆっくりと顔を上げる。
正面に座る、表情を強ばらせたイズミとすぐに目が合う。

ソファーに広げられた読みかけの育児百科。病院から渡された新品の腹帯ふくたい。ダイニングの端に置きっぱなしにされた、母子手帳やエコー写真。
叱られた子供みたいに、情けなく張りつめた顔を隠すように伏せて、スイは静かにモンブランを食べ始める。

これ食べたら買い物行ってくるね。イズミが言うと、スイは黙ってうなずいた。

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