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六本木アートナイト2023 立体造形好き男の会場放浪記

6,023文字

5月の朝はすがすがしい。
一年で一番心地いい時期だと、俺は思っている。
六本木アートナイトは、そのタイトルどおり、ナイト=夜がメインのイベントだ。
でも俺は、夜に行くより朝に行くのが好きなのだ。
繁華街の朝ってのは、独特の空気を持っている。
たとえば、新宿歌舞伎町の朝。
前夜の享楽を少し引きずった街の雰囲気は、すがすがしい朝の空気感とまったく不似合いで、そこが魅力なのだ。
たとえば、昭和から続いているような大きな商店街。
早朝で開店まで大分まだ時間があるとき、店の降ろされたシャッターが続いている商店街にただよう、朝のさわやかさのなかのむなしい空気感。
六本木も歓楽街である。
夜は繁盛していても、営業を終えた朝になると、入口のドアをぴたっと締め切った飲食店の前を通りすぎるのが、俺にとってたまらなくいいのだ。

アート作品を見るのが好きで、いろんな作品をよく見る。
絵画や版画は、平面作品という限られた空間、しかも鑑賞するには一方向からしかできない(絵画作品を横からみたり、後ろから見たりできない。横や後ろは額縁である)というしばりの多さが、以前の俺は耐えられなかったが、いまはそこが魅力となった。

平面作品も好きなのだが、それ以上に好きなのが立体造形作品だ。
作品自体が自立していて(たまには自立していないのもあるが)、前からでも横からでも後ろからでも鑑賞できる立体造形作品は、俺のお気に入りである。

今回の六本木アートナイトでも、立体造形を求めて六本木ヒルズ、六本木の街中、ミッドタウン東京、国立新美術館を巡り歩いた。まずは六本木ヒルズに向かった。

花柄毛布。
かつて、どこの家庭にでもあった。今でも使っている家庭は少なくないだろう。俺も冬、寝るときに使っている。
昭和43年頃に製造が始まり、憧れの西洋文化の高級感が感じられるとあって広く普及した。
花柄毛布は日本独自の製品である。
作家の江頭誠は、花柄毛布であらゆる家具をくるんだ。
江頭がこの作品を作るきっかけは、ひとり暮らしの部屋に友人が来たときだ。
実家から持ってきた 花柄毛布を友人にダサいと言われ、それまで気にも止めていなかった 花柄毛布が急に恥ずかしくなった。
それ以来 花柄 毛布が意識せざるを得ないものになった。
そしてこの作品ができあがった。

家具だけでなく、ギターも花柄毛布にくるまれている。
花柄毛布のギターを、俺はできるだけ近づいてしげしげと見た。
かつて男子は誰もがギターを持っていた。
ひとり暮らしのアパートの一室に、あるいは実家の自分の部屋に、必ずといっていいほどギターはあったものだ。
作家の江頭が何歳なのかは知らない。しかし、恐らく江頭もギターとともにアパートで暮らしていたのである。
6畳の部屋にひとりで座り、窓辺でポロロンと弦から音を出していたのだ。
あるときは、自分が押さえられる数少ないコードをしっかりと左で押さえて、右手でジャカジャカ、ガシャガシャと力強い和音を掻き鳴らしていたのだ。
ギターの伴奏にあわせて歌も歌った。歌は自信なかったが、自分が奏でるギター伴奏にあわせて歌うと、何とも心地よかった。きっと、そうなのだ。

俺もそうだ。ギターとは40年以上のつきあいだ。
あるときは単音で弾く。あるときは和音を奏でる。
中学1年のときに、町に1件あったギター専門店で両親に買ってもらった1万5000円のギターをいまでも持って弾いている。

ギターを通して、会ったことのない江頭と気持ちが通じ合えた。思いがけない幸せであった。

ミッドタウンの商業ビルに入ると、ビル中心の大きな吹き抜け空間に、巨大なものが吊り下げられているのが目に入った。
はじめは何かよくわからなかったが、よく見ると、どうも鳥のようである。
キャプションを見ると「トンビ」だという。
なぜトンビ??
現代アート作品を鑑賞するときに必ず感じる「なぜ??」「どうして??」「これ何??」という疑問。
現代アートを見始めたときは、この疑問に対して、いちいち真正面から解きほぐそうと、自分自身のなかであれこれ苦労していた。だから、作品を鑑賞する気持ちは余裕はほとんどなかった。いまから思えば無駄な努力である。
いまは、疑問を解きほぐそうという努力はせずに作品を鑑賞できる心の余裕がある。

作家の鴻池朋子は芸術の始まりに立ち返り、人間がものを作ることへの問い直しを試みているのだという。
この巨大な吊りもののトンビは、捨てられる運命であった切れ端の動物の皮を用いて作られている。
なぜ鴻池はの作品を作ったのか? 
古代の人間は動物の皮を使ってものを作っていた。
そこで鴻池はものをつくることの根源に立ち戻って、動物の皮で制作した。
この作品のコンセプトのひとつは、そういうことなのか?

確かに、古代の人は動物の皮を使って衣服を作ったりしていたようにも思う。けれど、もしそうだとしても、石や骨と違って、腐って残っていないのだろうから、おれはそういうのを見たことがない。

この作品は大きい。大きいというのは、アートにとってパワーや可能性がある。大きいというだけでアート作品になりえる。
日常空間に突然巨大なものが設置されたら、驚くし、不思議だし、その作品の周りには非日常の空間ができあがるし、なんだか楽しい。

捨てられる切れ端の皮で作ったということは、廃物利用である。近頃は、鴻池に限らず、たくさんの作家が廃物利用して作品をつくっている。
廃物で作った作品は、見る人にいろんなメッセージを与える。見た人はその人なりに、いろんなメッセージを受け取ることができる。俺はそういう作品は大好きである。

これも鴻池朋子の作品。 今回は 鴻池朋子の作品が多かった。あるいは、俺が気になった作品が、この作家が製作したものだったのか?

巨大な赤ん坊が何かを見上げ叫んでいる。表面はガラスの破片で覆われている。巨大な頭はゆっくりと回転しているので光が乱反射する。
俺はこういう、一目見て強く印象に残る、シンプルに存在感のある作品が好きだ。
この子は何を叫んでいるのか? 
どこを見ているのか?
そういうことは考えなくていい。
ぐるぐる回る巨大な赤ん坊の頭を、傍らに立って眺めているだけで、あるいは自分自身が頭の周りをぐるぐるを廻っているだけで楽しい。

光る、というのも、見ていて楽しい。光はそれだけでパワーがある。
しかも頭の表面は小さなガラス片が異なった角度で貼られているから、ぐるぐる回る頭に合わせて、乱反射するので、見ていて飽きない。

床には、20年以上前にモンゴルで害獣駆除された狼の毛皮が置かれている。ここにも、動物の皮が出てきた。

国立新美術館の1階のテラスに行くと、大鹿の大きな角と艶めかしい女性の足が滑らかに接続する、白い奇妙な物体が横たわっていた。これも鴻池朋子の作品。

俺は動物の角が好きである。先日、大きな寺の境内で開かれていた骨董市に出かけていき、大きな角を買ってきた。
店の人は「角を買ってもらうと助かります」と、代金を渡した俺に言った。
「助かる」は、どういう意味だろう? 分かるような気もするが、意味はどうあれ、俺は人助けをしたのだ。

この作品が置いてある場所は、人通りが少ない。人が行き来する動線上ではなく、遠くから目立つ場所でもない。会場の案内図を頼りに、わざわざここまで来なくてはならない。そのため、この作品を鑑賞する人は、とても少ない。

作品はテラスに横たわっている。横の姿もいいが、個人的には立姿も見たかった。白い一本足を地面に付けて、細い胴体のうえには、巨大な何本もの角が生えている立姿は、怪獣のようでもあり、妖怪のようでもあり、怖いような、ちょっとユーモアを感じるような、そんな生物に見えそうだ。そんな想像をするのは楽しい。


もうひとつ、鴻池朋子の作品。狼をモチーフにしたベンチ。国立新美術館の建物入り口前の広場に置かれている。
目立つ場所なので、たくさんの人が鑑賞していて人気がある。
鴻池は野生動物に深い関心を持ち、なかでも狼は特別なモチーフのひとつだという。そういえば、巨大な赤ん坊の頭の下にも、狼の毛皮が敷かれていた。
この狼は、胴体はひとつで、頭はふたつ。足は6本。ふたつの頭は、あっちとこっち、それぞれ反対方向を向いている。
ひとつの口はとぢて、もうひとつの口は開いてゐる。神社にいる狛犬ならぬ、阿吽の狼だ。
狛犬は神社の入り口に置かれることが多いから、この阿吽の狼が建物の入り口近くに置かれているのは、とても似つかわしい。そう考えると、国立新美術館の巨大なガラス棟は、神殿のようにも思えてきた。

この作品は実際に座ってもよいとあって、鑑賞者はベンチの上に腰を落ち着けて、座り具合を鑑賞している。あんまり長く座ると、ほかにの座りたい人に悪いので、みんなそこそこの時間で腰を上げる。すると、周囲にいる誰かがベンチに向かって歩き出して腰を掛ける。
鑑賞者同士で「どうぞお先に」なんて会話はしない。作品を遠巻きにして立っている鑑賞者は、座っている人が立ち上がりそうな気配を感じると、「次は自分の番だ!」というオーラを全身に発しながら、ほんの少し、作品のほうに近づく。
それを見たほかの鑑賞者たちは「次にオーラを発するのは自分だ!」と心に決めて順番を待つ。
そして絶妙のタイミングで、自分の体を作品のほうへ近づける。

作品に座ると、みんな座っている姿を写真に撮ってもらっている。俺も座って記念撮影した。アート作品に座るのは心地いい。


国立新美術館の屋上庭園に、つぼを見に行く。芝生の上につぼが20個くらい、点々と置かれてゐる。
作者のしばたみづきによれば、つぼではなくて「つぼのようなもの」。どちらでもいいと思ふのだが。
しばたは、大いなる流れを捉えようと制作を続けてきた。今回制作した、つぼのようなものは、国立新美術館の敷地内で 雨水をため、土を採取し、これらを練り合わせて 粘土を作る。そして会期中、この粘土を使って、つぼのようなものを作り続けている。
しばたのいう大いなる流れとは、素材を元の場所に返すという循環のことを指すのか?

俺が鑑賞しているあいだ、若い男女がやってきて、会場のすみに置いてあった道具のところで何か作業を始めた。
もしかしたら、この男女のうち女性が作家かもしれない。俺はこの作品を作ったのは女性だと思っている。

俺は展覧会で作家に出会うと、できるだけ作家とおしゃべりするようにしている。このときもおしゃべりすればよかったなあ。
「どう見てもつぼなんですけれど、どうしてつぼのようなもの、なのですか?」
「作ったものがなくなるのは寂しいけれど、どこか精神性を感じます」
と、疑問や感想を言ってあげればよかったなあ。でも、相手は作業しているので、邪魔をしては悪いから、声をかけないでよかったかもしれない。

ツボは屋外に展示されているので 、天候によって乾いたり溶けたり、絶えず変形する。展覧会が終わると、つぼは 素材が採取された場所へと返される。つまりは、物体としてのつぼは残らないわけだ。
もっとも、壊れやすいつぼを20個以上も保管するのは美術館だって大変だし、作家も若いので、自宅やアトリエも広くないだろうから(勝手な想像ですけれど)、保管することもできない。会期が終了したら、作品はもとの場所に返してあげるというは、保管のコストがかからないし、メッセージ性もあるので、とてもいいなと思った。

作家がこれらのつぼを「つぼのようなもの」と命名したのは、ものを入れる本来のつぼとしては使えないからだろうと、家に帰って考えた。
形状はつぼなんだけれど、つぼの機能は備わっていない。だから「つぼ」ではない。
俺個人的には、形状がつぼならば「つぼ」と呼んでいいと思うけれど、作家はつぼとしての働きをなさなければ「つぼ」と呼べず、だから「つぼのようなもの」と呼んだのかもしれない。

俺はもう少し思考を進めてみた。たとえば「人間」と「人間のようなもの」を考えた。形状は人間そっくりだけど、人間としての働きや感情が何もないのは「人間」とはいへない。「人間のようなもの」である。
さふ考へたとき、作家の命名は大変によく考えられたものであり、アーティストといふ人たちは、普段からいろいろとよく物事を考へているんだなと思った。

今回の「六本木アートナイト大賞」受賞作品である。「六本木アートナイト大賞」とは、俺が独自に創設した賞で、今回から始まった。

作家は井原宏蕗。井原は、虫に食われた本を生物が作った彫刻として捉え、保存修復 で使用する医薬品で書籍の質感を保たせながら固め、彫刻のように自立させた。

俺は自然の力や法則によって、本来の姿が変形、変色したものが大好きである。だからこの作品も、虫による食われ具合、色の退色具合、紙の皺のよれ具合、いつまで見ても見飽きることはない。

じつは、虫に食われた本を「生物が作った彫刻」として捉えるのは、はじめは理屈っぽい感じがして、なんとなく気に入らなかった。でも、あとから考えたら、観光地に行くと、「大自然が作った景観」などと言って、奇怪な形をした岩が名所になっていたりする。作ったのが、かたや虫で、かたや波や風だが、どちらも自然の一部なのだから変わりはないのだと気付いた。アーティストといふのは、よく考へているんだなと、ここでも思った。

皆様にご紹介する立体造形作品は以上だ。だがもうひとつ、立体造形ではないが、素晴らしい作品があったので次にご紹介しよう。

ベトナム・ホイアンの町を歩き回る野良犬をビデオ撮影した作品。作家のうらあやかは、どこに行くか 、何をするかわからない犬の後をつけて撮影する。そして、その撮影している作家の姿を、もう一台のカメラが撮影する。
ディスプレイは2台設置され、1台は歩き回る犬の映像を、もう1台は犬の後を追って歩き回る 作者の姿を流す。

動物とか昆虫とかの動きというのは、なぜにああも面白いのだろう。予測不能だからなのか? いや予測は不能ではない。ある程度の予測はつく。まっすぐ行くんだろうなとか、右のほうへ曲がるんだろうなどか。でも、思いもかけないときに、思いもかけない方向へ曲がる。それが面白いのだろうか。

俺は庭で地面の昆虫の動きをじっと見ることがある。いつまで見ても見飽きない。でもづっと見ているわけにはいかないので、途中で見るのをやめる。できたら、きりのいいところでやめたいのだが、昆虫にとって「きりがいい」ということはない。だから、地面で動き回る昆虫をあとにして、家の中に入るのである。作家のうらあやかは、どこから犬を追い始めて、どういうタイミングで犬を追うのをやめるのか、みたかったのだが、いつまでも動物や昆虫のように映像が続いているので、途中で席を立った。

長い文章を最後まで読んでくれて、どうもありがとう!

以下は、前回の六本木アートナイトの記事。前回は9月に開催した。


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