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自由人

 静岡の少年院で講演をさせていただいた。

 駿府学園は比較的軽微なトラブルを起こして送致された少年たちの施設だ。敷地内には有刺鉄線が張り巡らされており、割れた窓はテープで補強され、施設を囲む高い壁にはスプレーで書かれた落書きがびっしり……なんてことは全然なくて、宿泊施設みたいな綺麗な外観だった。門番はいないが、施設の入り口で電子機器を持っていないかチェックされ、スマホは受付に預けるように言われる。私はポケットにトランプをひと組だけ入れて廊下を進んだ。

 狭いエレベーターに乗り、静脈認証の扉を抜け、職員の控え室に通される。天井には監視カメラの映像が映るディスプレーが数台。ロッカーの上には警察の使うような大型の無線が並んでいる。職員からふたつの禁止事項を説明される。少年たちに名前や出身地を聞かないこと。どんなトラブルを起こしたか聞かないこと。なかなかどうしてしっかりしているのだなと、ドキドキが高まる。

 時間になる。職員に案内されたのは、机が数台とホワイトボードだけ置かれた簡素な部屋だった。間もなく少年たちが入ってくる。全部で11人。髪を短く刈った彼らの顔は幼く、活力に満ちていた。挨拶は元気で丁寧。「職業はマジシャンです」と自己紹介しただけで、表情がくるりと変わる。みんな普通の少年じゃないか。身構えていたのが馬鹿らしくに思えて、ちょっと笑ってしまった。

 少年たちが着席して講演開始。みんないっせいにノートを開く。真剣だ。
 もともとは「職業について」の授業らしかったが、私の職業は特殊すぎて参考にならないと思ったので、もっとプリミティブなことを話そうと思った。

 テーマは「自由について」にした。

 私は時々、自由というものについて考えてしまう。
 昔の私は不自由だった。内気で根暗であがり症で、言い訳ばかりするズルイ少年だった。そんな私がマジックと出会う。マジックは「思い込みを利用したエンターテイメント」であり、ひとの思い込みはいくらでもコントロールできることを知った。思い込みというキーワードから派生し、心理学や行動学、哲学に興味を持ち、「自由とはなにか?」の問いに行き着く。カミュ、カント、アドラー、森博嗣、エトセトラ。本を読みまくって、たくさんの偉人変人に自由について教えを請う。彼らは口を揃えて言う。

自由は自分の頭が作り出している。思い込みこそが限界を決めている。

 自分は頭が悪い?
 自分は運動ができない?
 自分は無能で生きる価値がない?

 なぜそう思い込むのかと言えば、楽だからだ。勉強は面倒だし、チャレンジは恐ろしい。他人から否定されて自尊心が傷つくかもしれない。だから、言い訳して心の安寧を保とうとする、いわば自己防衛なのだ。
 思い込みは自分では気づけない。外部から指摘してもらったり、他者の思想を受け入れたりして、ちょっとずつ自分の不自由に違和感を持って、変わるための行動をし、不自由から解き放たれていく。
 そのために私たちは学ぶのだ。

 早起きができないのもダイエットが続かないのも、他人の言葉で怒ったり悲しむことも、自分の不幸を他人のせいにしてしまうのも、コントロールできてないという点ですべて不自由だったのだ。
 私は息苦しさの正体を知って救われた気がした。自由になりたいと思った。しかし、道のりは平坦ではない。長年かけて染み付いた癖はなかなか治らない。人前に立てば震える、レストランでは注文に迷いまくる、女の子をデートに誘う勇気が出ない。そんな自分が嫌いで、様々な荒技を試し、肉体改造ならぬ精神改造を繰り返した。

 まだまだ自由人への道半ばだが、たぶん彼らよりは先輩だろう。ここに至るまでに身につけた思考法や手軽なテクニック、とんでもない失敗談について話して、最後にマジックをひとつだけ見せた。心を操るマジックを。

 みんな楽しそうに聞いてくれた。質問がポンポン飛び出して、和やかな雰囲気のままあっという間にタイムアップ。依頼してくださった方も「こんなの初めてだ」と驚いていた。喜んでもらえたなら幸いだ。

 彼らはこの施設に二、三ヶ月しかいないらしい。もう会うことはないはずだ。でも、折にふれて思い出すだろう。

 彼らは自由になれたのかな、と。

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