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己の表現の影響力を知る発信者であれ。

「表現の自由」という定義の元に、萌え絵等に関する公共における問題が絶えない。

萌え絵等、と書いているので無論萌え絵に限った事ではない。

一般的に萌え絵ではないお餅であるよもぎもちくんでさえ「涙跡が常にあるのは気持ち悪い」と言われ、人の気分を害する危険性もある。それによって批判される自由をも持ち合わせて「表現の自由」である。

音や文や絵で表現するクリエイターの中で「自分が表現するもので人を傷つける危険性」を熟知している作者は、果たしてどのくらい存在するのだろうか。
所謂、「他者観」「客観性」を持っているか否かが非常に大事なポイントだ。
クリエイターは生まれ持っての承認欲求の塊ではあるが、その承認欲求に振り回されるだけではただの奴隷である。

誰に向けて発信するか

ターゲティングとマッチングについては昔在宅で同人活動をしていた時、この点について重点を置いていた。
大きく売り上げに左右されるし、ターゲティングを間違えると作品を手に取ったときに受け手が「地雷」と判断してしまうのだ。

公共になると壁の範囲が広大になり、ターゲティングでない人間まで巻き込んでしまうと考えている。
公共とはこういうターゲティングのイメージになる。
これがわからないとエロ表現に麻痺して「攻撃性がない」と判断してしまうのだ。

自分の作品を好む受け手に届ける

この考えを持ちながら作品を作れているだろうか。

所謂オタク文化というのは「検索避け」という物があり、好まないジャンル(地雷)を避ける事で衝突を避けるように促されている筈である。

壁を作る事は昔からある事なのである。

「萌え絵」一般化の問題

モノレール駅を利用する事があり、「鉄道むすめ」なるものが存在する事を知った。
広告にアニメ絵を使うことはまったく珍しく無い。
だが、アニメ絵と萌え絵は似ているようでまったく別物である。
萌え絵は「男性向けに作られた性的表現が含まれる」ものだからだ。
したがって、萌え絵表現をそのまま違和感を感じることもなく世に出して炎上するのだと思う。

また、萌え絵に限らずアナーキーな表現に慣れて麻痺していると「他者観」が抜けていると同じことが起きてしまう。

自分が大丈夫だから公共でも大丈夫、ではない。

クリエイターの方々はその点を心がけて欲しいと常々思う。

ネオフラワーデモ茨木 よもぎもちNovo

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