波乱人生ー閉鎖病棟、いじめ、幸せ


私は山奥の閉鎖病棟に入れられた。

入るとガシャんと鍵が掛けられる。

びっくりした。



荷物の全てが没収された。


そこに入れられた時、これはもしかしたら

一生出られずに、娘にも会えないのではないだろうかと、泣き続け

血圧が上がりきったようで

数日意識がなかった。



しばらくは、自分のベットに引きこもって出なかった。



だんだんと落ち着いてきた。


周りには、おばあさん、おばさんが3人の、4人部屋だった。



一見、普通の感じだったが

夜になると徘徊したり

急に倒れたりしていた。


夜中は、ずっと歩き回る人がいて

なかなか眠れなかった。


私は、まだ生活保護が決定されていなく、

お金も3000円くらいしか持っていなかったので


靴下も、洗濯代も、箸も何もなく


箸などは食事ごとに借りにいかなければいけなかった。


めんどくさがられることもあったし、

靴下、履いたらいいのに、と言われたり

お金がないと言うことの切なさを、さらに体感した。


気分がいい日の周りのおばちゃんに、お菓子を恵んでもらうこともあった。



保護が降りていない間は、

周りの看護師さんもほとんど話したり、気にかけてくれなかった。


病院に入る前は、1〜2ヶ月で部屋を探して借りるように言われていたが


山奥に行ったこともあり、4ヶ月ほどかかってしまった。



だんだんと、私がやばい人ではないことが

周りにもわかってもらえ、

保護も降りると、


職員の人も話してくれた。


そして、すぐに出られるように

ラジオ体操をしっかりして、

カラオケ大会、卓球大会などには

真面目に出続けた。


結果、自分の体調もどんどん回復していった。


早く、一人で施設にいる娘を迎えに行きたい一心だった。

きっと、不安で寂しいだろうと、毎日思った。



ここでの生活は、先日閉鎖病棟という映画を見たが

そのものだった。



急に椅子をぶん投げて、真っ青な顔で暴れる人がいたり

興奮し出す人もいる。


病気なのかわからないが、よく喋るつるっぱげのおじいちゃんが、

逆立ちをしたり、はしゃいで職員に怒られていたり。


ただの知的障害者に見えるような人や

高速で話すおばさん、

絵を描く静かなおじさん、

拒食症の女の子、

色々な人がいた。


お風呂は週に2回で急いで入らなければいけないが

何より楽しみになった。


私が、部屋を探しに行ってくると、同じ病室のおばさんに言った時、こう言っていた。

「こんなとこに、もう戻ってきちゃいけないよ。
私は、家も、旦那も、子供も土地も全部取られてここにきたんだよ。
あっちこっち、たらい回しにあったよ。
もう戻るとこもないんだよ。
絶対、ここに戻ってきちゃいけないよ。」


その言葉が、じんわりと心の奥に届いた。


きっと、一人一人の人生を聞いていったら

相当な苦労なあるんだろうなぁと思った。



やっと、部屋を探して

娘を引き取りに施設へ行くことができた。


部屋に、ほんの少しのクリスマス飾りをした。


なんとかクリスマス前に、会うことができた。


娘は、とても穏やかで

ほんわかとした子。絵が好きで、とても上手い。


「どうだった?寂しかった?」

とぎゅっとしても、


ひょうひょうとしていた。

「大丈夫だったよ。」そう言った。


それでも、なんとなく様子が違って、お人形のような感じになっていた。



帰って、一つの布団で寝て、

はみ出て起きた時


隣にはちょっとぽっちゃりとした娘が寝ていて、

ただそれだけなのに

とてもしあわせだった。

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この子にどれだけ支えられてきたか。


この子の存在にどれだけ救われてきたか。



この子がいなかったら、確実に死んでいたし

最悪、人を殺してしまったかもしれない。

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この6年に感謝した。


その月は、もう500円くらいになり

年末には15円くらいになった。


あと数日でゼロだけど

お米があるから大丈夫。

もう少しでお金も入るし

盗む人もいない。

ものすごい安心感に包まれていた。


なんでもっと早くできなかったんだろう、と流石に後悔した。


娘とお話しして

その15円くらいを一緒に神社のお賽銭にした。





伊丹にいたのは、娘が小学1年の終わりから、
3年生くらいまで。


3年で、娘の様子がおかしくなった。


顔色が悪く、下痢が止まらなくなっていっていた。


しつこく何かないかと聞くと、


同じ吹奏楽部の女の子に、ずっと、臭い、きもい、デブなどど言われていると

いう。


私は、学校に電話した。


吹奏楽部の先生が出て、あからさまに興味がないような話し方で


「とりあえず、認めるかわかりませんが聞いてみます。」

という。


その次の日には、「認めました。謝っています。」と言っていた。



はい、処理終わり!みたいなノリだった。



そのいじめた子供の親には、私も吹奏楽部の関係で行った時に

数人で無視などされていた。



娘が、少しして学校に行くと

さらにまたやられてきた。


それに、キレた私は、学校、校長、教育委員会電話した。


すると、保護課から電話がかかってきた。


「あんた、ごちゃごちゃやってるんやってな。
実家は、北海道やろ。引っ越しの金出すから、帰りぃや!!」

と、強い口調で言われた。


保護でいると、子供がいじめられても、何も言ってはいけないのか。。。。



実際、生活保護でいるとそのようなことは

いくらでもある。


保護の人間をいじめて、ばかにして喜ぶ人間だらけだし、

ケースワーカーにも、色々言われることもある。


例えば、体が動かなくて、役所に行けない、と言ったら

「動けもしないなら、子供施設に入れや!!」と怒鳴られたことがある。

そして、その担当は、しれっといなくなったりしている。


知り合いにも、片付けもできないなら死んだらいいやん、と言われた人もいる。



生保がバレると、本当に大変なことになる。

私ではないが、久しぶりに寿司でも出前で取ろうものなら

役所に苦情が入るらしい。


生保の人間が、寿司なんて食うんじゃねぇと言われるのは、

よくあることらしい。


不正受給はもちろん、すぐに摘発されるべきだが

色々な理由で、受けなくてはならなくなった人は

大体、申し訳ない、申し訳ない、こんな税金で暮らさせていただいて
死んだ方がいいだろうか、なんて考えたりする人だって多く
いる。


多分、、、思うに

生保の人間を攻撃するような人は

自分が生保になったら、「こんな少ない金で生活できるか!!」なんて平気でいうような人だ。

以前、ひろゆきさん〔もと2CH創設者〕が言っていたが、

生保をどうこういうような人は、
ほぼ似たような生活を送っている人が多い、と言っていた。


私もそう思う。


自分は、こんなに頑張って働いて、12万なのに、

生保のやつは働かずにもらいやがって、という逆恨みだ。


本当は、働くのがすごく辛いという気持ちなんだと思う。


社会的に成功し、裕福な人は大概

生保がどうだとかは、どうでもいいことだから。



生保のことになってしまったけれど、

本当に困っている人は

助けを求めていいシステムなのだから、

それを、周りのことを気にして

死んでしまうくらいなら、勇気を持って受けたらいいと、私は思う。





話を戻して、

この時に、ことをさらに大沙汰にすることもできただろうが


私は、生まれ育った地に帰りたかった。


その言葉に甘んじて、学校も変えることもできるのだしと、

北海道に帰った。



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