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ちいさくて些細な奇跡

猫というのは、クールで気ままな動物だと聞いていたし、確かに市松にもそういう一面はあるのだけど。その特色は、想像していたよりもずっと薄い。目にものすごくその時々の気持ちや感情が現れるし、鳴き声も場面ごとに違うので、そりゃあ100%正解ではないのだろうけれど、大まかな要求の内容やなにを考えているのかは分かるようになってきた。

こちらが「こう?」「こうじゃない?」と言いながら対応すると、「そうそう」という感じで応じてくれる。時に夫が分からず、私だけが分かったりすると「こいつは分かってくれた!」という喜びの色が見えたりもして可愛い。

そんな市松の目線や行動、状態を熱心に見ていたら、ふと、前職の子どもたちと接していた日々のことを思い出した。障害があり話すことができない、限られた言葉のみを発する子どもたちの望み、気持ち、感情を探るのは、前職では必須スキルだった。

猫と子ども(人間)を一緒にするな、障害者をばかにしているのかと言われたら、それは違うとはっきり言う。ただ、言葉でのコミュニケーションに不自由がある場合という意味において、私は思うことがある。

例えば、動物、障害のある子ども以外でも、日本語が通じない外国人と接する場合だって同じことなのだけど、伝えたいという気持ちと理解したいという気持ちが、同じ温度か、お互いにとても近い温度で重なった時、ちいさな奇跡が起こる場合がある。

前職の仕事中、何度かそういうちいさな奇跡を見た。

その子のことを理解するために、集中しながらも柔らかい心でいるように努め、いろいろなアプローチ、工夫をして……、遂に通じ合った時の感動といったらなかった。「伝わった」「分かってくれた」と、子どもの方も喜んでくれていることが明らかに分かった。一瞬、あっと驚いた後、瞳がきらりと輝く。その瞬間の美しさは、仕事のやりがいという言葉では足りないほど感動的で、実際に涙ぐんでしまったこともある。

一度通じ合うと「また分かってもらえるはず!」と、ハードルが上がるので、それはそれで大変なこともあった。失敗したら、やっぱりガッカリもされるし。こっちの力不足で理解できることとできないことがあるせいで、「あれは分かってくれたのに、どうしてこれは伝わらないの?」と、余計にパニックが強くなる場合もあった。

けれど、その繰り返しをすることで、今までその子にはなかった「伝えよう」「分かってほしい」という姿勢を強く持ってくれるようになるケースもあって、正に失敗も成功も、すべてに意味があるんだなと、実感もさせられた。

前職では、本当にいろいろなことを学ばせてもらったけれど。特に、体温を伴った心からの思いやりと、それぞれの心が通った時、ちいさな奇跡が起こる場合があるのだと、身をもって知ったことはものすごく意味のあることだった。

私は基本せっかちで、今でも短気なところがあるのだけど、仕事を始める前は、本当に今よりずっとずっと酷かった。子どもたちに教えてもらい、弱く細い神経を鍛えてもらい、どうにか人並み程度か、標準より少し気が短いくらいの、今の自分になることができた。

市松に対しても、今の自分じゃなかったら、今とは違うマイナスな気持ちを抱くだとか、見方や関わり方も変わっていたのかもしれない。もしそうであったら、市松の方も、私に期待せず、分かりやすいサインを出すことをあきらめていたかも。

まあ、大体理解できるとはいえ、まだ一緒に暮らして3か月も経っていないので。未だに「遊んでー!」は分かるものの、遊びの種類、細かい望みまでは汲み切れない時がある。「だるまさんが転んだ」をしたいのか、ボールを投げて欲しいのか、猫じゃらしがいいのか、その辺はまだ正確には分かってあげられていないので、私が判断を誤ると「スーン」とした顔で見られることや「……違うけど、まあええか」と、こちらに渋々付き合ってくれることも少なくない。

市松にもしちゃんと答えを聞くことができたら、「全く分かってもらってないけど、しゃあなしで付き合ってる。は?こいつ、僕の望みが『大体分かる』とか思っちゃってんの?はあー?」と言われ、歯磨き用おもちゃを親の仇のように噛む時のように、容赦なくガブガブされるかも知れない。

それでも一緒に過ごす時間の積み重ね、失敗と成功の繰り返しは、やっぱり私と市松の関係にもなにかしらの奇跡を起こすと思う。それがどういう形であらわれるのかは、まだ分からないけれど。

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