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イノセントブラック

 関東が梅雨開けして間もなく、依玲奈が残した鉢植えの薔薇の花が咲いた。つぼみがつき、ふくらみ始めた頃から、もしかして、とは思っていたけれど、その薔薇はベルベッドの布のように滑らかで、しっとりとした黒色の花を咲かせた。

 生まれてからずっと気楽な実家暮らしの私と違い、依玲奈は、高校から実家を出て寮に入り、大学に入ってからはひとり暮らしをしていた。

 私と依玲奈は、幼なじみ。彼女とは、共通点が少ないはずなのに不思議と気が合った。寮が休みのときや、大学の夏休みの間、依玲奈は、自分の実家ではなく、私の家によく泊まりに来た。

 依玲奈が小学生の頃、実の母親が病気で亡くなり、間もなく家には新しい母親とその連れ子がやって来た。どうも依玲奈の父親は、妻の闘病中からその後妻と関係があったようだ。半年も経たない内に新しい子が生まれ、依玲奈は完全に居場所を失ってしまった。

 血のつながりがなくてもうまくやっている家族もいると聞くけれど、彼女の家は違った。人前で泣いたことなどなかった依玲奈が、初めて泣きながら我が家を訪ねて来た夜。私は、母と一緒に彼女を温かく迎え入れた。そのときの記憶は、今でもはっきりと残っている。

 「この家で一緒に暮らしましょうよ」と、母は、依玲奈を娘第2号にしようとしていたが、依玲奈は、そういうことは望んでいなかったようで。何度も泊りには来たものの、高校時代は寮、大学時代はひとり暮らしの部屋と、生活の基盤は、常に別の場所に置いていた。

 母は、依玲奈が死ぬまで、何度も何度も「あの子、うちの子になればいいのに」と、私と父に漏らしていた。

 依玲奈が死んだのは、半年前の雪の日だった。

 彼女はベランダで、鉢植えを抱えて凍死していたところを発見された。二日も無断欠勤した彼女を心配して、会社が警察に連絡したそうだ。

 葬式の日、棺桶の中で眠る彼女を見た母は、真顔で「今度は、うちの子に生まれてきなさい。あなたのお母さんと一緒に。まとめてうちの子になりなさい」なんて言っていて、私は思わず「お母さん、それはさすがに色々おかしいよ」と、泣きながら笑ってしまった。

 しかし、母は本気だった。四十九日が過ぎた頃、依玲奈が大事にしていた母親の写真と、死んだときに抱いていた鉢植えを引き取りに行ったのだ。母の話では、依玲奈の父親は、驚くほどあっさりそれらを譲ってくれたという。

 そんなわけで、今、我が家の仏壇には、依玲奈の母親の写真、私と依玲奈が映った写真が、それぞれ別の写真立てに入って並んでいる。

 依玲奈の写真は、私の部分を切り取って飾ればいいと言ったのだけど、母は「あんたと一緒に笑ってる依玲奈ちゃんが一番なの」と、譲らなかった。
そして、例の鉢植えは、私の部屋のベランダに置かれることになったのだ。

 正直なところ、最初は、いくら大好きな依玲奈の遺品だとはいえ、死んだときに抱えていたものだと思うと、少し怖いような気もした。

 けれど、生命というのは、そもそも清純なものなのだろう。枯れかけた木に水をやり、太陽の光に当て、緑の葉をつけ、上へ上へと伸びていく様子を見守っている内に、自然と死のイメージは、薄れていった。次々と芽吹き、育っていく葉を撫でれば、依玲奈の艶やかな髪を思い出した。

 だからこそ、黒い花が開いたときには驚き、一度は消えたはずの不気味なぞわっとした感覚を再び覚えた。

「なんでよりによって黒い薔薇よ」

 私が恨み節のようにつぶやくと、部屋の前を通りかかった母が、「なによ。どうかした?」と、洗濯かごを抱えベランダにやってきた。

「いや、どうしてこんなの抱えて死んじゃったのかなって。遺書もないし、依玲奈が考えてたことも、なにも分かんないから」

 母は、かごを置くと、私の隣に座り、黒い薔薇の花をそっと撫でた。その仕草は、生きていた頃の依玲奈の頭を「あなたは可愛い、良い子」と撫でていた様子そのままだった。

「あの子にだって、分からなかったでしょうよ。わけも分からない間に、大事なものを失いなにもかもが変わって、ひたすらそれに耐えて。あの子は、ずっと子どもだったのに」
「二十三歳の、子ども?」
 驚いて私が言うと、母は「当然でしょ」と、こう続けた。
「世の中には九十歳の子どもも、五十歳の子どもだっているんだから」
「いるかな?」
「いるわよ」
「あ。え、ちょ、ちょっとなに!」

 母は、おもむろに私の頭を抱きかかえた。

「黒い薔薇の花言葉は、永遠の愛。知ってた?」
「いや、知らないってば」
「憎しみ、恨みとかいう意味もあるそうだけど。私はこの薔薇に、これからずっとずっと永遠の愛を込める。あんたと、依玲奈ちゃんにも」
「……重いなあ。お母さんの愛はいつも重たい」
「そりゃあ重いわよ。本物の愛はいつも重くて熱くて、鬱陶しいもんよ。重くない愛、ほどほどの愛ってものは全部まがい物よ」

 梅雨明けしたというのに、ベランダから見上げた空は、今すぐにでも降り出しそうな濃い鉛色をしている。

 そして、私を強く抱いた母の腕は、洗濯物のせっけんの匂いと、血の通った温く、優しい生き物の匂いがした。

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