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夏の終わりに想いを馳せる

8月31日。

今年ももうとっくに過ぎてしまった夏の終わり。

今の子どもたちは、夏休みが少し短くなってしまったようで、8月の最終週には2学期を迎えていると聞く。

だから、8月31日という日は、何の節目でもなく、特別感のないただの1日に過ぎないのだろう。

それでも、夏休みが8月の終わりまであったあの頃を過ごした人にとっては、この1日を特別な日だと感じる人も多いのではないかと考える。

月が変わったらまた学校に行かなければいけない。

あれだけあった宿題が全然終わっていない。

まだ休みを満喫したい気持ちだったり、あるいは長い休みが明けて休みが明けてやっと友達との日常に戻れることを心待ちにしたり。

そんな新たな日々と、この夏の小さな冒険の数々に思いを馳せる特別な日だったのだ。

いくつになっても、この日を迎えると少し切ない気持ちになる。

8月の終わり。
夏の終わり。
長かった、楽しい休みの終わり。

実を言うと、子どもの頃は9月1日を迎えるのが少しこわかった。

当時のわたしは、そんなに人付き合いがうまくできる方ではなかった。

あとになって知るのだが、これはわたし自身の問題だけではなく、その基盤を作ったのは親だった。

別に母親が教育ママだったというわけでもない。

むしろ、勉強やら娯楽に関しては放任主義だったと思う。

子どもの頃には、きっとほかの家の子たちと比べてゲームをやる時間というのは長かったはずだ。

そのおかげもあって、わたしは立派なオタクとして成長したわけだし、今こうしてバ美肉おじさんとして活動だってしている。

当時の放任主義をありがたく思っておくべきなのだろう。

それはそれとして、わたしの母親は極度の事なかれ主義だ。

本人は平和主義などとのたまっていたが、外から見れば悪い意味での事なかれ主義。

それがわたしを周囲の友人から遠ざけることになった。

気付けば学校が終わったあとに友人と遊ぶこともほとんどなくなってしまう。

そして、一度形成されてしまったコミュニティというのは異物が入ることを嫌うのだ。

それは子どもであっても大人であっても変わりないだろう。

つまり、わたしは学校でやや孤立気味な立ち位置になってしまったわけだ。

正直にいえば、あまり思い出したくはないが、除け者にされてしまったこともある。

そんなわたしにとって、2学期が始まる前日の8月31日は憂鬱な日でもあったのだ。

時は過ぎて、中学校にあがると、それまでに比べると少しだけ人間関係を築くことに抵抗はなくなった。

きっと入学したての最初のクラスが良かったのだろう。

同じ小学校からだけではなく、他の学校からやってきた子たちと奇跡的にウマがあったのだ。

そのときの担任の教師もよかったのだろう。

実は、彼は3年間わたしの担任となり、部活動の顧問でもあったのだ。

当時は少し疎ましく思ったこともあったが、今振り返ってみると、わたしの人格形成の根底にある人間のひとりであり、たくさんの恩を感じている。

ダメ人間だったわたしが学校生活で絶望感を抱かなかったのは、当時の担任とクラスメイトだった彼らのおかげだろう。

さて、そろそろ夏のはなしに戻ろう。

とにかく、8月31日という1日は、わたしにとってある種特別な想いを抱く1日なのだ。

それは初めはネガティブな想いで、いつしかポジティブな想いに変わっていったわけだが、どちらにせよ特別な想いを抱かずにいられない日。

8月が終わり、9月になるたびに。

今ではただ「8」と「9」の境界でしかなくなってしまったその日が訪れるたびに、少しセンチメンタルな気分になる。

「夏は命が輝く季節」

わたしがかつて好きになり、今でもずっと好きであり続けているノベルゲームがある。

この台詞は、そんなゲームの特典としてついてきたドラマCDの冒頭の台詞。

なんてことのない台詞のはずだが、これがなぜかわたしの心に残り続けている。

生まれるために長い時間をかけても7日しか生きられない蝉たちの命を燃やした声。
風に揺れて勢いよく天を仰ぐ向日葵。
そして、地区大会に勝てずに涙を流したあの夏の日。

当時のわたしの命は、そして、今年の夏のわたしの命は輝いていただろうか。

その自信は、正直ない。

それでも、たとえ命を燃やせなかったとしても、今年もこの日はやってくるのだ。

今年の8月31日は、いつもに比べて少しだけ素敵な日になったと思う。

とはいっても、ただの平日だ。

機械的に繰り返される、社会の歯車としての動きをこなすだけ。
そんな歯車に与えられる休日にはまだ少しだけ遠い、そんな普通の日。

リアルでやるのは難しいが、今年はオンラインで線香花火に想いを乗せることにした。

この日、この夏に起こったことを振り返ってみた。

最近、流行り病の蔓延もあってかなり忙しくなってしまい、余裕がなくなってしまったはなし。

とある友人との縁を断ってしまったはなし。

そして、8月にやれなかったことと9月にやりたいことをあれこれ。

アーカイブのシークバーを見ればわかるのだが、何を隠そうこのおじさん、3時間も線香花火をやり続けていたのだ。

冷静に考えるとおかしいが、それだけ、この日はおしゃべりすることが楽しかったのだ。

そんなわけで、今年の8月31日は線香花火とリスナーのみなさんとのおしゃべりで過ぎていった。

去年はわたし自身が流行り病に倒れてしまい、高熱にうなされる日々を過ごして過ぎて行った1日が、今年はこんなに素敵な日になったことが素直に嬉しい。

さて、来年の夏のわたしは、この命を輝かすことができるのだろうか。
来年の8月31日もまた、今年のように素敵で穏やかな1日でありますように。

来年のわたしに向けて、今のわたしをがんばるのだ。

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