わたし心中宵通信

昨日のわたしは今日のわたしとともに死ぬ。
そのための祈りのような何かを綴るだけ。

こうでなければいけないとか、正しくありたいとか、そういう自分の中の信念みたいなものがきっとある。だけどそれは、何色なのかも何でできているのかもよくわからなくて、そのくせに一丁前に硬くて大きいから、視界を遮られて俯いてしまう。解けた靴紐に気づいてしゃがみ込んだら、今度は結び方がわからないことに気づく。そのまま座り込んで動けなくなってから、数年が経つ。

わたしひとりでは、この状況を突破できない。
何が目の前に聳え立っているかもわからずに、どうやって靴紐を結んだらいいかもわからずに、立ち上がることさえできない。

他者との関わり合いで、自己を形成する。他者に反射した自分の姿を見て、自分を知る。わたしはそうやって、これまで生きてきたんだ。だから、自分が綺麗に見える相手がいいし、多方面からのリアクションは心に堪えるから、限定した空間の中だけで生きる。そうやって、これまで自分を守ってきたんだ。
自分ひとりでは、自分のことを理解するのさえ難しい。自分ひとりでは、自分のことさえ救えない。

わたしは、わたしのために他者が欲しい。

依存、数多の他者の中でもお前でなければならないという執着。きっと、わたしの中でぽっかりと空いた何かを埋めてくれるお前が、わたしには必要なのだ。でもお前は、他者はそんなに暇じゃない。わたしにだけ構っていられるような時間はない。
それに、わたしはお前を支えられない。だから、一緒にはいられない。

じゃあ何をしたら満たされるのか、何を得たら心地よいのか、それさえもわからない。やっぱり靴紐は結べない。
壁のようなもので隔たりを持つ人間関係が怖い。かく言う自分は防弾硝子の要塞で隔たりをつくろうとするくせに。
ただ、全ての境界線が曖昧でいつだって融合されかねない人間関係も怖い。ずぶずぶに溶け合って、後戻りのできないわたしたちになることも少しだけ望んでいるくせに。

逆に、わたしが他者のために何かしてやりたい、何かになりたいなんて、思ったことあるのかな。

全ての原点は、わたしがわたしを守りきれていないことにある、それはわかってるんだね。
他者に救ってもらいたい、そして、他者を救ってあげたい。救ってあげたいなんていうのが傲慢だな、他者は救えやしないのに。
全ての原点は、わたしがわたしに対してできないことを、他者に依存しているということかもしれない。

強く生きるって何だよ。

逃げていたい、そばにいたい、追っていたい、確かめたい、救われたい、認めたくない、わかりたい、このままでいたい、許されたい、眠りたい。
ぐちゃぐちゃで何もかもよく見えないけれど、それでも、靴紐を結べるようになりたいよ、わたしひとりでも大丈夫になりたいよ。

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