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自分が非凡であると思うことと平凡であると思うことのバランス

こんにちは、よもぎです。

みなさんはいかがお過ごしですか?

僕は、いろいろ悩みながらも元気に頑張っています。
この前の7月で24歳になりました。

現在も大学に通いながらベンチャーで働いています。
大学は来年の3月(2025年)に卒業します。

以前の投稿から変わったことがあるとすれば、契約形態がインターン(業務委託)から社員に変わったことです。

私が今いる会社では、ずっと学生インターンが中心の組織でしたが、ここ1年半ほどで、社会人の割合が増え、組織がガラッと変わっています。

その中で思う、現在の自分の苦しさや洞察を記事にしていくので、ぜひ最後までご覧ください。


大人と働くことは難しい

学生インターン中心で働いていた時ももちろん難しさはありました。学生インターンばかりだった時は、下記のような難しさがありました。

  • 全員経験がないことによって、書籍や記事によるインプット中心となり、やるべきことの優先順位をうまくつけられないこと

  • 働く以外の選択肢(学問・サークルなど)が多くあることによるモチベーションの維持

そこから社会人が増えた組織になると、またこれは難しさはありますし、学びも多くありました。

  • 書籍に書いてあることを体系化して学んで、実際に会社に落とし込んでいくことは非常に大変なアプローチで、経験者に過去の経験に基づいてアウトプットしてもらった方が早い。

  • 経験のない僕にはそのアウトプットが正しいかどうか、検証する術がない。

  • 大人と議論して、自分の意見を通すだけの自信と議論のスキルがない。

加えて、事態を複雑にさせているのは、社員ではなく、業務委託の契約の方が多いということです。

僕は業務委託と社員というのは単なる契約形態の違いなのであって、そんなものは関係なく、みんな同じ熱量を持って働くチームを作ることができると思っていました。

ただ、それは理論的には実現しそうですが、これは理想論で、現実はそんなものではありませんでした。

これを一例として、実際に働いてみると理想だったりこれまでの人生経験からくる感覚と異なる事象に出会いすぎることがわかりました。

賢さも大事ですが、それと同じくらい、いや、もっと経験が大事なのかもしれません。

これまで無意識に前提としていたものを疑うことにする

話は全然変わりますが、人間はこれまでの人生の中で培った、前提というものをもとに物事の判断や認知をしているのだと思います。

その前提をもとに人と接しているわけですが、どうもこれが周りの感覚とズレると大変だということに気づきました。

すべての人間が同じ前提を持っているわけではありませんので、それぞれの物事に対して、何種類か前提を持ち、それらを切り替えることによって、より多くの人間の考えを理解することができるのではないかと思います。

加えて、複数持ち合わせた前提のうち、何をメインとし、自分が無意識に持ち出す前提はなんなのかをコントロールする必要があると感じます。

例えば、僕は、「人間は他者に厳しいことを言われることを嫌うのではないか」という前提があります。
ただ、僕は立場上、仕事では成果を上げるために、人に厳しく接することが求められます。

人間は他者に厳しいことを言われたくないものだと思っている僕にとって、人に厳しく接することは辛いことです。

ただ、本当に人に厳しく言われることを皆嫌うのでしょうか?

考えた結果同じ結論に落ち着いたとしてもこの問いに対しては一度深く考える必要があると感じます。

こんな感じで僕の中に疑うべき前提が何個かあるので備忘録のために並べておきます。

  • プライベートな時間を削って仕事に時間を費やすことが素晴らしい。

  • 人への返信は素早く行わなければならない。

  • 人からの依頼や誘いは断らない方がいい。

  • 一つのことより、多くのことができた方がいい。

上記の全ては僕の根幹をなすもので、これらを覆すことで僕の土台が崩れてしまいそうな気がしますが、それを乗り越えてこそ、新たな成長があるのでしょう。

自分は非凡なのか


さて、今回の中核である、自分は非凡なのか平凡なのかについて考えていこうと思います。

もれなく全員とは言いませんが、僕含め、若い頃は自分は特別でなんでもできるのではないかと思うのではないかと思います。

それはとても良いことで、そのエネルギーを使って何かを生み出せるとハッピーだと思います。

しかし、単に親より賢いだけで、自分が特別と捉えて、親を含め周りの人間が自分より劣っていると捉えるのはいかがなことかと思います。
(なぜこれほど具体的に述べるかと思うと、当時の自分も、周りの人間も上で述べたような振る舞いをしているからです。)

さて、その上で、今の自分より賢い過去の人間はごまんといます。今の自分が優れていると思うのは、現代に発達したテクノロジーが素晴らしいから、それだけです。この恵まれた世の中に生まれただけなのであって、この時代で善戦したからといって、過去の人間より優れた証明にはなりません。

そのことを理解せずに自分が優れていると考えるのはまだまだだと思います。

加えて、いくら自分が特別だと思っていても、自分自身がつまづくのは、大抵過去の人間がつまづいたことです。つまづくことが同じなのであれば、自分は天才でもなんでもなくて、普通、すなわち平凡であると感じます。

この見出しでは、自分は平凡なのではないかと結論づけます。

では自分は平凡なのか

さて、自分を平凡と結論づけた上で、本当に自分は平凡なのかということについて考えていきます。

ここまでもそうですが、ここからはさらに僕自身の主観です。

まず、大人になったら大半の人間が自分を平凡として定義するのではないかと思います。
それは、明確に自分自身を「平凡」として定義した瞬間もあれば、無意識のうちに自分を決めつけていたということもあるでしょう。

僕の中で、自分が平凡であると定義するのは、一種の諦めであると思っています。(これ以上はまだ考察途中なので語るのをやめます。)

諦めるという言葉の辞書的な意味は「自分の願望が叶わず仕方がないと断念する」ということで、自分に対して定めた目標を諦め、今の自分を甘やかせることと言い換えることもできるでしょう。

自分が他の人間より少なくとも優れていると捉えることを諦め、自分が平凡であると結論づけ、自分を甘やかすのは良いことなのでしょうか?

これに関しては、一概にダメとか良いとか言えるものではなく、時と場合によると思っています。
それより持ちたいスタンスとして、自分のことを大切にしよう、ということを大事にしたいと思っています。

自分が壊れてしまっては挑戦も何もないと思っています。だから壊れないように自分を甘やかせることも大事です。

しかし、(主張が二転三転して申し訳ないのですが、)何かを成し遂げようとする僕にとっては、平凡だから仕方ないというように自分を甘やかすことは価値観に反します。

ここまでの結論として、平凡であると思うことと非凡であると思うことのバランスが大事であると考えます。

基本スタンスとして、基本は自分が非凡であると信じますが、自分のメンタルが大崩れしないように、自分が平凡であると甘やかすときも重要だと思っています。

これまでの経験として、メンタルが大崩れしてから立て直し、再度走り出すのは難しいことがわかりました。
自分に期待することで大崩れするくらいなら、一旦自分を許してあげましょう。


加えて、自分のどこが非凡であって、どこが平凡なのかの分別をつけましょう。

すべて非凡であるのは勘違いで、全能であるという空虚な自分を守り続けるのも疲れるので、どこを肯定してどこを人に譲るかを理解しましょう。

最後に、では自分(よもぎ)はどこが非凡なのでしょうか。

それは、困難に向き合い続ける忍耐力と、困難に向き合った結果受けた傷に対しての回復力とそこから得る教訓を成長に活かすスピードです。

これは、だれにも負けないものだと思っています。
自分の強さについての深掘りは別の記事でしようと思いますので、またその機会にご一読いただければと思います。

おわりに

ここまで長々と非凡と平凡についての考察を書きましたがどうだったでしょうか?

みなさんのお考えをコメントでいただけると嬉しいです!

これからも大変なことが待っているかと思いますが、非凡な自分を信じて、平凡な自分を許して頑張っていければと思います!

また次の記事でお会いしましょう。



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