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「禁欲主義者」への宣戦布告。

 あくまで個人的な考えだが、僕はストイックさを美徳とする風潮や考え方を良く思っていない。「ストイックな生活様式が楽しいからやっています!」という人であれば、「そういう価値観もあるよね」という了解で済むが、楽しめてもいないストイックな生活自体を目標にし、あわよくばその生活様式を押し付けようとする人には、態度を改めさせてもらっている。

 理由のないストイックな姿勢に意味はないというのが僕の主張なのだが、その結論だけを無批判に肯定するのは如何なものかと思うので、なぜストイックさが無批判に肯定されるに至るのかを因数分解していこうと思う。

そもそもなぜ「ストイック」を掲げるのか

 貯金がストイック(禁欲)の卑近な例だが、「車を買いたい」という目標の為に貯金をしていると仮定しよう。その目標をいち早く叶える為には、現在の「消費」を抑えて資金を浮かせることが大切になってくる。なぜなら、収入は限られており、これ以上支出を増やせば目標に回す資金がなくなってしまうからだ。

 つまり、「資源が限られているから、目標実現のためにはそれ以外のことに資源を割かない」という、目標実現に一途な姿勢こそがストイック(禁欲)と言ってもよい。

 だが、そんなストイックさが意味を持たなくなってしまう(むしろ足枷になりうる)条件というものが存在する。

「ストイック」の限界

 先に定義した「ストイック」とは、①モノが限られている ②(限られたモノを消費して)実現したい目標がある という二つの条件がそろって初めて意味を成している。つまり、この二つの条件のうちいずれかが欠けても、「ストイック」さにおける意味は喪失してしまうのだ。

 先の例に置き換えるなら、「車を買いたい」という目標を持ちながら、その目標を今すぐにでも達成できるほどの収入があれば、無理して禁欲的な生活をしなくてもよい。また、「車を買いたい」という目標自体がなくなった場合、資金を大幅に使う機会も喪失されるので、ここでも禁欲的な生活をする必要性はなくなる。

 その他、「資源の消費を抑えた目標の実現ができる場合」においてもストイックさに意味はなくなってくる。先の例でいうなら、「車は所有せず、レンタカーでもよい」という代替案をとれば資金は浮くので、ここでも無理な禁欲生活を送らなくてもよくなる。

 つまり、目標が何らかの形で実現されるか、目標が消滅した場合における「禁欲」はさほど意味を成さなくなり、特に質素倹約を苦手とするような人にとっては苦痛以外の何物でもないだろう。

 しかしながら、目標が達成された(あるいは失われた)にも関わらずストイックさを掲げ、むしろ禁欲的な生活自体を目標にしてしまっているケースが往々にしてある。

真の行動原理は何か?

 ある目標を達成するために制度を作ったが、その目標が達成されたにも関わらず「制度」が根強く残ったため、無批判にその制度を守ることを目標としてしまう…という目的と手段が混乱した状態を「物神化」と言うが、先に述べた禁欲主義とはこの物神化の状態にある。どれも「目標を見失う」ことでその目標を達成するための手段自体が目標になってしまっていることを考えると、無批判に「ストイックであること」を肯定する人は、「なぜストイック=美徳なのか?」という問いに対して「目標達成」という回答を導き出せないだろう。

 目的と手段の混乱は、何も「禁欲主義」にとどまらない。

 例えばそれは、「楽しみたい」という目的を持って始めたピアノや絵といった趣味を「続けること自体」が目的になったり、SNSにおいても「いいね」数を得る事自体が目標になって、本来の目的であったはずの表現物を創ること自体に楽しみを得られなくなったり…と、枚挙にいとまがない。

 目的と手段が混乱しない為にも、その行動の真の目的が何であるかを常に考える必要がある。

まとめ

・「禁欲主義」とは手段であり、理由や目的をもたない「ストイックさ」に意味はない

・何か行動をしている時、その行動の真の目的を考えてみよう

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