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【心のどこかで私だけの“魔法”を探し続けて】 子どもの頃のこと、教えてください!「児童文学作家 角野栄子」

『魔女の宅急便』をはじめ、たくさんの児童書で子どもたちの心に種をまいてきた作家・角野栄子さん。近年はカラフルなファッションや楽しみあふれる暮らしぶりも注目されています。エッセイ『「作家」と「魔女」の集まっちゃった思い出』で幼少期から作家になってからのあれこれを綴っている角野さんに、子どもの頃のことについて伺いました。

【プロフィール】
角野栄子

東京・深川生まれ。大学卒業後、出版社勤務を経て24歳からブラジルに2年滞在。その体験をもとに描いた『ルイジンニョ少年 ブラジルをたずねて』で、1970年作家デビュー。代表作『魔女の宅急便』は野間児童文芸賞、小学館文学賞を受賞、その後舞台化、アニメーション・実写映画化された。産経児童出版文化賞大賞、路傍の石文学賞、巖谷小波文芸賞、野間児童文芸賞、小学館文学賞等受賞多数。「アッチ、コッチ、ソッチのちいさなおばけ」シリーズ、「リンゴちゃん」「ズボン船長さんの話」など著作多数。紫綬褒章、旭日小綬章を受章。2016年『トンネルの森 1945』で産経児童出版文化賞ニッポン放送賞、18年3月に児童文学の「小さなノーベル賞」といわれる国際アンデルセン賞作家賞を、日本人3人目として受賞。

撮影 萩庭桂太/©⾓野栄⼦オフィス

1日に何度も泣く子だった

 幼い頃は、よく泣く子でした。1日に何度も泣くの。理由なんて、ないようなものですよ。3歳上の姉が私をおいて遊びに行っちゃったとか、何かを貸してくれなかったとかね。家族も慰めてくれるときもあるけれど、あんまりしょっちゅう泣くんだもの。「ほっとけ!」なんてものですよ。
 
 1人で泣き続けているとたいてい「家出しよう」と思うの。実際にはしないんだけど、空想するんです。「かわいそうな子がいい人に拾われて……」って昔のおはなしによくあるでしょう。泣きながらずっとそんなことを空想していると、だんだん元気になっていくのね。それで気を持ち直して、「今まで泣いてなんかいなかったんだよ」みたいな感じで家族の中に入っていくの(笑)。
 
 泣き虫は、5歳のときに母が亡くなったことが関係していると思います。やっぱりさみしかったんでしょうね。父は、残された姉・私・弟に愛情を注いでくれましたけど、弟なんてまだ2歳にもならないときですから。父は翌年に再婚し、新しい母ができて弟妹たちが生まれます。全部で6人きょうだいの、私は上から2番目になりました。
 
 だから甘えたい気持ち半分、ちやほやしてくれたらいいなという気持ち半分……。今でもそんな気持ちは心の底の底にあります。当時8歳だった姉と違って、私は母の死を現実のものと割り切れなかった。ずっと引きずっている。その引きずっていることが私に物語を書かせているのかなと思います。


田んぼや土手で存分に遊ぶ

 私は1935(昭和10)年、東京の下町の深川生まれです。今の清澄公園とか、木場に近いあたり。隅田川の「綱場(つなば)」って言ってたかな……木材を扱うところが近くにあったのを覚えています。
 
 あの頃の東京は空気が悪かったんですよ。みんな石炭や薪を焚いたりしていましたから。父は深川で商売をしていて、でも、自分の姉が結核で亡くなったことから、子どもに同じようなことがあっては困ると思ったんでしょうね。まだ母が生きているうちに、江戸川区の小岩のあたりに別宅を構えて、家族はそこに引っ越したんです。だから私は3歳から小岩育ち。父は、深川の店まで毎日通っていました。私たちは両国から都電に乗って、よく父のところへ遊びに行っていました。
 
 引越した先は、田んぼと原っぱ、ところどころ松林。道は舗装されていないし、ドブも多いし、蚊はいっぱいいるし……。本当に田んぼの中の一軒家。近くに江戸川が流れていたから、土手の葉っぱで遊んだり、ゴロゴロ転がって下りたりね。ザリガニとったり、トンボを追いかけたり、小さい子から大きい子までいっぱいいて、みんなで群れをなして遊んでいましたよ。
 
 家の中でもきょうだいでよく遊びました。夜、吊った蚊帳(かや)の中に入って布団に寝ころぶと、縁側の向こうの庭からの風で、蚊帳が揺れ、光も音もぼわんとして海の中にいるみたいなの。蚊帳をふるわせて大波小波、海に飛び込んで捕まえっこにまで発展して……歓声をあげて激しく遊んで吊り手が切れてしまって。楽しかったですね。
 
 親は挨拶や礼儀のしつけは厳しかったけど、忙しくて子どもに構ってられないから、子ども同士や、ひとりでずっと遊んでいるわけです。小刀で竹を削って竹とんぼを作ったり、木切れをどこかから持ってきて、釘を打って舟みたいにしたり。想像しながら色々なものを作って遊んでいました。


話がおもしろかった父のこと、漬物や梅干しのこと

 幼い頃のことで思い出すのは、父のあぐらがあたたかくて、そこにすっぽり入ると、頭の上からおはなしがふってきたこと。桃太郎だったり、花咲か爺さんだったり。父が体を揺らしながら語ってくれた「川上から大きな桃が『どんぶらこっこーう すっこっこーう』と流れてきました」ってあたたかい、歌うようなオノマトペは私の体の中に残っています。赤坂生まれの父は、はずんだ言葉づかいが好きで、意味のないはやし言葉を日常の会話の中にふんだんに入れておどけてみせたりする人でした。
 
 父の家は貧しかったので、子どもの頃から奉公に出されて商家に住み込みで働いていました。1年に1度「薮入り(やぶいり)」といって里帰りのお休みがあるんですが、そのとき浅草で無声映画を見るのが楽しかったそうです。
 
 ラジオから聞こえてくる浪花節、講談、落語だとかが父の中には入っている。父が話すのは、いろんな作り話や昔話、映画の話、宮本武蔵の「巌流島の決闘」なんてまだ小さい女の子にはよくわからないんだけど(笑)。でもおもしろいんですよね。父を通じて私の中に入ってきた音や言葉が、私の “言葉のもと”として、残っているような気がしますね。
 
 父のあぐらに座っていると、よく白菜の漬物の葉っぱのところで、ごはんをくるんで食べさせてくれました。そのおいしかったこと。白菜は大きな樽に2つ分、毎年漬けるんですよ。大好きだったのは梅干し。毎年平たいざるに並べて、梅雨の合間の暑いときに天日にさらして、ひっくり返して干すのね。それをまたカメに入れて。水が出てくるから、それは梅酢としてお腹が痛くなったときの薬になるの。私は赤紫蘇を入れない、自然な色の梅干しが好きでした。
 
 泣き虫の自分を情けない人間だと思うことはいっぱいありましたよ。でも子どもってケンカするけどすぐ仲直りする。夕ご飯の時間になれば、みんな畳の上に正座して一緒に食べるんですから。怒っても泣いててもほぐれるっていうかね。それが当たり前でした。


食べ物も本もない戦争

 小学校1年生から戦争が始まって、どんどんひどくなって3年生の時に疎開して。戦争が終わったのは5年生。その間、本なんて数が少ないし、学校にもない。だから教科書が嬉しくて何回も読んだことを覚えています。もらった日に読んじゃうって感じね。習っていない字もあるから全部は読めないんだけど。
 
 終戦前から数年間住んだ千葉の家から、学校に通う途中にあった、トンネルのように長くて暗くて真っ黒な杉並木がとにかく怖かった。誰かがじっとのぞいているようでした。だから  入り口のところでいつも「5年2組、角野栄子通りまーす」って自己紹介をして走って通り抜けたの。挨拶した私が通るんだから怖い目にあわせないでという気持ちだったんだと思います。下駄を履いていると早く走れないから、下駄を脱いで抱えて、裸足でダッダッダッと走るわけ。木の根っこやでこぼこしているから、足の裏なんか固くなっちゃってね。
 
 父の店があった深川の方は、空襲で焼けて何も残りませんでした。よく父が生きていてくれたと思います。私たちは小岩に家が残ってたから、それで助かったんです。戦争中も戦後も大人たちが必死になって子どもに食べさせようとする姿は心に残っています。「食べるものがない」ってことに打ちのめされた時代でした。


新しい経験を求めて

 東京に戻ってきたのは中学2年生でした。戦後は外国の文化がいっぱい入ってきたし、禁じられていた英語を習うようになり、アメリカの映画を見たい、新しいことをやってみたいって。親に「早く帰ってこい」と言われても帰らない。映画を立ち見で3本見て、遅く帰って怒られるとかそんなことばっかりやっていましたよ。10代は自分でも自分がわからない時代ですよね。反抗期って言うのかしらね。
 
 中学2年生から高校卒業まで通ったのは、市ヶ谷にある女子校でした。坂を下りると神保町の本屋街があるの。あそこは不思議に焼けなかったですね。学校からは「学生だけで映画を見ちゃいけない」「寄り道しちゃいけない」って言われるけど、友達や姉と本屋さんを見たり、三省堂の前の映画館に潜りこんだり。新宿にも映画を見に行きました。シャーリー・テンプルという女優が出ているアメリカのミュージカル・コメディ『オーケストラの少女』(1937年)や、『凡てこの世も天国も』(1940年)が好きでした。『荒野の決闘』(1946年)という西部劇の映画も中学の頃に見たことを覚えています。
 
「大学に行きたい」と言ったとき、父はすぐには許してくれませんでした。「女の子の幸せは結婚して家庭を持つことだ」と。その頃は女の人が働くという概念があまりなかったんです。高校卒業後に結婚するか、その頃やっとできはじめた短大にいくか。女子校だったので女子大に入った人も多かったですね。でも私は共学の大学には、自分がそれまでにいた環境とは違う世界があるだろうって思ったの。早稲田大学に進学したのは、通っていた女子校から私1人でした。国鉄で飯田橋までいって、飯田橋から川沿いに走る都電に乗って大学に通いました。途中からわざと新宿まわりの定期券にして紀伊國屋書店や映画館に寄り道しました。大学時代は本も読んだけれど、友達と話すのが楽しかったですね。


物語を書くことは、私の“魔法”

 大学で英米文学を学び、紀伊國屋書店に就職後、結婚してブラジルに渡り、2年暮らします。ヨーロッパを回って帰ってきた後、子育てをしながら暮らしていた34歳のある日、大学時代の恩師から電話がかかってきて、彼のすすめで『ルイジンニョ少年 ブラジルをたずねて』を書くことになりました。自分が毎日いくら書いても飽きなくて、これこそが自分の好きなことなんだと、そのとき初めてわかりました。これから書いていこう。父から聞いたあの歌うような言葉で楽しい物語を書いていこうと決めました。それからずっと書き続けています。
 
 私は子どもたちに「この人は何も押し付けない。楽しいおはなしをしてくれる人だ」と思われたいし、そういうものを書きたいんです。物語って何が起きるかわからない。ページをめくるとき、次に何が起きるだろうというときめきが瞬時に心の中で動くでしょう。主人公と自分を重ねて共感したり反発したり、自分だったらこうするのにって思ったり……。あの過酷な戦争の中でも、物語や空想は私をなぐさめ生きていく力をくれましたから。
 
 人は生きている間、誰かに贈り物をしながら生きているんだと思います。母の死が何かを残してくれたように、父から“言葉のもと”をもらったように。みんな誰でも、自分の“魔法”をひとつ持っているはずなんです。暮らしの中で好きなことを見つけて、コツコツ毎日繰り返し、考えて楽しんで深めていくことができれば。それがいつか自分を大きな世界に連れていってくれる。ある時期から自分の“魔法”になる……。私にとってそれは書くことです。想像は、創造するエネルギーに強くつながっているから。だからこそ楽しさで心ときめく物語を子どもたちに読んでほしいなって思います。
 
ライター:大和田佳世

【書誌情報】


『「作家」と「魔女」の集まっちゃった思い出』
著者: 角野栄子
【定価】836円(本体760円+税)
【発売日】2023年11月24日
【サイズ】文庫判
【ISBN】9784041137444
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