ミス・ミスターコンってそんなにダメ?現役大学生が本音をぶっちゃけます!【メンバー座談会】
ミス・ミスターコンってそんなにダメ?
ーーミス・ミスターコンテストに対してそれぞれの考えを教えてください。
清水和華子:私はボディビル、筋トレの大会、ミスユニバースとかには結構賛成で、それはプロとして美を競っているから良いと思います。ただ、ミス・ミスターコンは学校でやってるから炎上、問題になっちゃうのかなと思っています。
特に「ルッキズムの助長」が問題なのかなと思っているのですが、本当にルッキズムを助長しているのかも疑問に思います。普段生活している中で見た目で判断されることが多いから、ミス・ミスターコンでそんなに大きな影響があるのかなと。
市川南帆:「ルッキズム助長」が原因でミスコンが批判されていると思うのですが、他にも見た目に関して順位をつける大会があるのにどうして、ミス・ミスターコンだけこんなに風当たりが強いのかな?っていうのをちょっと思ったりします。
金井薔那奈:評価する人が学生であり、プロではないという点、評価規準などを明示している団体が少ないという点から、他の大会よりも風当たりが強くなっているのではないでしょうか。私は、ミス・ミスターコンで評価される美の基準が闇に包まれているのにもかかわらず、ある一定の基準が存在しているようにみえることに違和感を感じています。
例えば、筋トレ系のコンテストだったら、どれだけ筋肉が鍛え上げられているかという観点で評価されると思うんですけど、ミス・ミスターコンは、そういう基準を言語化して公表していないと感じています。どういう人がミス・ミスターとして相応しいのか、そういった基準が分からないにもかかわらず、主催者達が美しい人と見なした人をファイナリストとして選び、投票者が美しいと見なした人に投票して、グランプリが決まっているんです。それは、基準を設けていないようで、いつの間にか普遍的な美の正解が決まっているということになります。それってすごく怖くないですか?
原野百々恵:私は「コンテストの基準が曖昧」という観点よりも、そもそもなぜ、大学内で順位をつけるコンテストを開催しているのかという点に疑問を感じています。しかも、その評価基準に「見た目」が関わってくることにさらに違和感を感じます。(ミス・ミスターコンの)グランプリを決める上で個性や集客力なども判断材料にはなるとは思いますが、ファイナリストたちを見た時に、主観ですが外見に対するある一定の基準が設けられてるように感じてしまいます。また、外見が評価基準に入るコンテストを行うことで、「他者の外見を評価してもOK」という認識が広がることは、ルッキズムの助長に繋がると思います。
あとは、ミス・ミスターという称号をコンテストにつけることで、自身をミス・ミスターという2つのカテゴリーに当てはめたくない人/当てはめてない人はそもそも参加すらできない。その方々が参加したい、したくないかは、参加する選択肢があるのとはまた別問題なのではないでしょうか。
三井滉大:私も同感です。見た目で人を評価することに様々なところで疑問の声が上がっているのに、時代に逆行するかのように大学でこのようなコンテストが残っている理由がよく分かりません。
市川南帆:そうですね。でも、ミスコンを楽しんでいる側として思うのは、外見の好みのタイプだけ投票してるわけではないということです。ミスコンはSNSの写真なども評価対象に入ると思うんですけど、写真映えのために出場者の方が自分でちょっと体型を変えてみたり、痩せてみたり、メイクを勉強したりっていう...色々な努力の仕方があって、その努力の過程を私の場合は見て、「この人頑張ってるな」「応援したいな」と思って投票します。
ーーミスコンでみんなが努力して頑張っている上での競争だから正当化できるという考え方は、能力主義的なのかという点ついてどう思うかお願いします。
市川南帆: 確かにそういった面はあると思います。やっぱり平等主義的ではない。何かで順位をつけるとなった時に、「頑張ることができる量」を基準にするとなったら能力主義の側面が出てきちゃうのかなって思います。さっき百々恵さんが言った「ある一定の外見」を持った上で、努力の量を見ているという面はあるだろうなと思います。
清水和華子:能力主義は、結果にフォーカスしていると思います。勝ったか負けたかが全てです。「努力」の部分が強調されるようになれば、高校野球児や駅伝の選手インタビューなどのようにメディアで綺麗に映るのかなと思います。ミスコンの人達も外見が優れている、誰が一番かわいいという結果だけではなく、努力が評価されるようになったので能力主義ではないのかなあと。
原野百々恵:能力主義の例はミス・ミスターコン意外にも沢山あると思っていて、その代表例が受験だと思ってます。大学受験などでは、帰国子女入試や推薦など、色々な基準やアファーマティブアクションも設けてはいるものの、ある一定の基準に基づいて「どれだけ大学が求めるパフォーマンスができるか」を求められていると思います。その求めるものを出した上で結果が出ると社会や周りからは、「頑張った」「努力したんだね」という評価を受けることがあります。その認識は、努力に対する一種の規範を作ってるなあ、とどうしても思ってしまいます。
今は教育システムに受験が入ってきてしまっているので、そのシステムをなくそう!となっても実現は難しいのでは...と思います。しかしそれを許容しているからと言って、ミス・ミスターコンの様な新しい規範を作るコンテストやシステムを作って良いでしょ!となるのは違うと思います。
金井薔那奈:そもそもですが、努力って全部測れるものなのでしょうか。私は努力って、自分の中のものなんじゃないかと思うんです。ミス・ミスターコンに限らず、限られた時間で、自分の中の概念でしかない努力を取り上げて、それを競わせることって果たして可能なのでしょうか。
三井滉大:努力はもちろん素敵なことですし、未来の可能性を開くものです。ただ、見た目を努力して美しくして、それを競うというのは違和感があります。
新しいコンテストの在り方も出てきた近年
ーーコンテストへの批判を受けて、形を変えて開催するコンテストもあると思います。例えば、上智大学のソフィアンズコンテストのように。そのような動きに対してはどのような意見を持っていますか?
金井薔那奈:そのような新しいコンテストでは、出場者の個性を評価してグランプリを決めるというものがありますが、私はそれに違和感を感じています。まず第一に、個性というものは、名前の通り個人のものでしかないと思っています。そんな一人一人違うもので競争すること、グランプリを決めることって、まず不可能なのではないでしょうか。たとえ可能だとしても、その中で一番いい個性を選ぶということは、一人一人の多様性を潰してしまっていることであり、もはや個性ではないのではないでしょうか。
清水和華子:SNSで投票を募るっていう形をとっている限り、やっぱりSNS映えする人とか、(短期の決戦になるので)見た目とかの限られた要素ばっかりで評価されることになると思います。その人の個性を全ての側面から理解することは無理だと思います。だから、目的とやってることがずれているのかなと思います。
市川南帆:薔那奈さんと和華子さんが言ったように、新しいコンテストで個性を完全に測りきれるのかとか、もっと複雑じゃないかっていう問題点は、確かにあるなと思います。一方で、ミスコンの批判が強くなっている中で、代替案を出していくという流れ自体は認められていいのかなと思っています。批判で終わってしまったら、そこで解決策って出てこないなと思うので、模索していること自体は認められていいと思います。
原野百々恵:解決策を模索している姿勢は、私も評価されて良いと思います。ルッキズムを考慮して、外見だけではないコンテストを立案したという主張をする団体・大学もありますよね。ただ、「評価軸に外見の割合が少なくなったから良いでしょ」とも聞こえてしまうんですよね。そうなると、外見による判断はどこまでが容認されるのか、と言う点に行き着くと思います。また、どの場面だったら外見により判断が評価軸に入ってきて良いのか、という点も考えなくていけないと思います。例えば、就活や大学入試で顔選抜があっても良いのか、など。
三井滉大:新しい形のコンテストを模索し、批判や懸念に向き合うという動きがあることは、良い傾向だと思います。一方で、ミスコンそのものに、容姿を競うというイメージが定着してしまっているような気がして、完全にルッキズムから解放されたコンテスト開催は難しいと思います。
ーーミス・ミスターという称号をつけたり、お披露目会でウェディングドレスとタキシードをファイナリストが着るコンテストもあります。このようなやり方が、男女二元論を強化しているという点に関してはどのような意見を持っていますか。
清水和華子:男女以外の性自認をしている人をどんどん認めていこうという風潮ができてきたのは最近のことなので、伝統あるミス・ミスターコンが、それに適応していないのはしょうがないことだと思います。ただ多様な価値観を認めようという風潮の中でそのままの体制を貫いていくのは、ちょっと問題だなと思う。なので、その観点から考えるとたぶんミスコンはない方がいい。
金井薔那奈:男女二元論の観点から、「女性」「男性」っていう区別はしない方がいいというのは勿論です。しかしだからといって「女性」「男性」、という枠の他に、その2つに縛られないそれ以外という新たな枠組みを作って解決するかというと、それは違います。それ以外の枠を作ってしまうのは、「男性」「女性」がメインで、その枠に当てはまらない人はマイノリティ、“異質”な存在なんだということを肯定していることのように思えます。なので、もしもコンテストを開催するのだとしたら、分けて開催するのは辞めた方が良いんじゃないかと思います。そうするとまた評価基準はどうなるの?みたいな話になるかもしれませんが。
原野百々恵:薔那奈さんの話しを聞いて、もしそれ以外の枠組みを設けたとしても、人が集まるのかなとは疑問に思います。性的マイノリティの方々は、偏見や差別の対象になりやすいと思うので、公共の場に出てカミングアウトすること、更にコンテストに参加することはハードルが非常に高いのではないでしょうか。
さっきも少し話しましたが、ミス・ミスターという称号があることで、自身をそのタイトルに当てはめたくない人/当てはめてない人は参加券がないと思っています。性的マイノリティの方々は伝統的なミス・ミスターコンが開催される前から社会に存在していました。見ようとしてこなかった、勝手に「認めない」としてきたのはマジョリティの問題だと思っています。伝統のあるミス・ミスターコンが適応していないことを「しょうがない」と片付けるのではなく、しっかりと対応して欲しいです。
三井滉大:男女の枠のコンテストしかないというのは、コンテストの主催が問題なのではなく、男女二元論がマジョリティである社会の問題だと思います。これに関しては、ミスコンを批判するというよりは、性的マイノリティに不寛容な社会を変えていく必要があります。
市川南帆:男女二元論の何が問題かというと、男性(女性)はこうあるべきという模範が決まってしまっていることだと思います。そのため、女性がウェディングドレス、男性がタキシードを着用するルールが存在するなら、確かに男女二元論を強化していると感じます。しかし仮に、個人で着用する服装を選べるのなら、一概に批判できないのかなとも思います。
需要があるからって何をしても良いの?
ーー仮にミスコンが廃止になった場合、「学生の自由な活動・活躍の場」が失われているという見方をする人もいると思います。
金井薔那奈:活躍の場は必ずしも、学内のミス・ミスターコンだけではないとすごく感じています。例えば、ミス・ミスターコンを通じて、自身の好きなものや趣味を発信したいと考えていた人なら、ミス・ミスターコンではなく「〇〇研究会」を作るとかできるし、ミス・ミスターコンを経てアナウンサーになりたかった人は、ミス・ミスターコンを通らなくても、個人で売名活動したり、それこそ直接企業にアプローチしたりとか、別の方法があると思います。むしろ学内のミス・ミスターコンっていう、限られた小さな場所から何かをアピールしたいとかっていうのは、結局、近い人に近い場所を準備してもらわないとダメみたいな、受動的になってるのではないかと思っていて、学内のミス・ミスターコンにとどまるということが逆に遠回りになっている可能性があるとも思っています。やはり自身の将来に繋げることの出来る活躍の場はもっと広いところで獲得した方が、より自分のやりたいことを明確にできるのではないかと思いました。
清水和華子: そうですね。見た目で勝負したい人が勝負する場所は、学内のミス・ミスターコン以外にもあると思います。同時に、〇〇大学のミス・ミスターコンに憧れて〇〇大学に入ったという人もいると思うし、メディアに露出する際に、「〇〇大学のミス・ミスターコンでグランプリを獲った」ということへ価値を感じる人もいると思います。なので、完全撤廃には反対です。
市川南帆:「ミスコン廃止=活躍の場を奪う」という考えに関してなんですけど、そもそもは需要があるかないかの問題だと思っています。ミスコンに出たい人、ミスコンを楽しみたい人が少なくなったら、自然と廃止になっていくのかなって思ってて...今残ってるのは、需要があるからで需要がある中で廃止をするっていうのはやっぱり反発が大きいのかなと。需要がある限り、完全になくなってはいかないのじゃないかなと思います。
原野百々恵:市川さんの需要の点、なるほどと思いました。それを踏まえて極論になりますが、「じゃあ需要があったら何でもしていいのか?」という疑問が湧きました。良い・悪いのラインは、その時代や地域でどこまで、それが容認されているかに依拠している部分が大きいのではないでしょうか。そのラインは多くの場合において社会において発言権を持っている人たちやマジョリティの認識で勝手に引かれていると思います。マジョリティの認識が想像力に欠けていることは多いにあると思うので、「需要があるから」ではなく、反対の声が上がる時は、なぜ上がるのか、楽しいイベントによりどのような問題や生きづらさが生じているか、ということに目を向けていくことが大切だと思います。
三井滉大:需要がある、ないという話より、それが倫理的にどうなのかという視点を持ちたいです。それは立ち止まってじっくり考えてみればわかる話かと。学生の自由な活躍の場という意味では、たとえ問題のあるコンテストでも、誰かが強制的に中止させることは不可能だし、すべきではないと思います。
ーー最後にメッセージをお願いします
金井薔那奈:美という概念に正解はないと思います。美の価値観は、時代や地域によって違いますし、なんなら個人の「美」の定義にも差異はあると思います。そんな不確実な概念に、基準を曖昧にしながらも、「正解があるよー」みたいな前提に立って順位をつけることには疑問を持ちます。
それと同じように、個性にも正解はないから、順位をつけることに対してすごく違和感を感じます。「なぜコンテストをする必要があるのか」「なぜ競争をするのか」を突き詰めた時にミス・ミスターコンのあり方については何かヒントがあるのではないかと思います。そういう観点から、今回の座談会のようにもっと時間をかけて話し合うことが大切だと思いました。
清水和華子:今まで自然に黙認、受容されてきたことに対して、疑問を持った人が声をあげ議論することはプラスだと思っていて、国家権力が完全撤廃するのも、全大学がミスコンをやるようにしてくださいというのも、どっちの極論も間違いで、あることもないことも、開催することもしないこともどちらも正しいのかなと思います。いろいろな対話の中で、結論、方向性が決まると思います。しっかりと議論することが大切だと思っています。
市川南帆:今回、自分とは違う人の意見を聞いて、なるほどと思うことが結構あって、自分と違う意見の人がどう考えているのか、もっと深く知りたいと思ったのと同時に、自分とは違う意見の人の話を聞くことで、みんなが理解できる形にミスコンがなっていく、その決着点を探す必要があると思いました。
原野百々恵:男女二元論の強化やルッキズムの助長という観点から、わたしはミス・ミスターコンに対してポジティブな感情を持っていないのですが、わたしが気がついていない別の視点をミス・ミスターコンの現場にいる人たちから伺ってみたいと思います。「嫌だ、反対だ」だけでは、なかなか進んでこなかった議論なので、自分とは違う意見を持っている人の意見を聞くことでより多くの人が納得できるコンテストの在り方を模索できたらと思います。
三井滉大:私も、ミスコンのあり方を議論をしていくこと、そして違和感を覚えたら声を上げていくことに意味があると思います。私は所属大学のミス・ミスターコン反対活動をSNSで見かけて、興味を持ちました。しかし、もし偶然見かけなかったら問題に触れることもありませんでした。いろんな意見が出てきて、議論が活発化することを願います。
執筆者:三井滉大/Kodai Mitsui、原野百々恵/Momoe Harano、金井薔那奈/Banana Kanei、市川南帆/Naho Ichikawa、清水和華子/Wakako Shimizu
編集者:三井滉大/Kodai Mitsui、原野百々恵/Momoe Harano、金井薔那奈/Banana Kanei、市川南帆/Naho Ichikawa、清水和華子/Wakako Shimizu、森青花/Aoka Mori
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