映画レビュー 新海誠『言の葉の庭』

2021年度「サギタリウス・レビュー 現代社会学部書評大賞」(京都産業大学)

自由部門 大賞作品

「普通の恋愛映画ではない言の葉の庭」

河原崎友暉 (現代社会学部 現代社会学科 3年次)

作品情報:新海誠『言の葉の庭』(2013年)

 “愛”よりも昔、“孤愛(こい)”のものがたり。これがこの映画言の葉の庭のキャッチフレーズだ。この映画を簡単に説明すると、高校生と教師の恋愛映画である。しかし普通の恋愛ではない。お互いに口や行動には示さないが共依存のような関係である。

主人公秋月 孝雄(あきづき たかお)は15歳の高校生、靴職人になることが夢でたくさんのバイトをしている。雨の日は学校の一駅前で降りて公園で午前中の授業をさぼる。その公園で昼間からビールを飲む女性雪野 百香里(ゆきの ゆかり)。彼女は孝雄の学校の古典の教師であるが、ある出来事がきっかけで女生徒からのいじめを受け学校に通えなくなってしまったのである。ストーリーの初めは梅雨なので、孝雄と雪乃は頻繁に会うことになる。雪乃は孝雄の制服を見て自分の学校の生徒であることに気が付く。雪乃は孝雄との別れ際にある短歌を詠む。「雷神(なるかみ)の少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」この短歌の意味は「雷が鳴り響き雨でも降ってくれないであろうか そうすれば、あなたをこの場に引き止めることができるのに」という意味である。彼は雨の日の午前中にしかその公園を訪れないため雨が降ってくれないだろうかと言う短歌を詠んだのである。ここには自分が高校の古典の教師であると気づいてもらいたいという気持ちもあったと私は思う。さらにこの短歌には返し歌があり、「雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて降らずとも 我は留らぬ 妹し留めば」意味は「たとえ、雷が鳴り響いたり雨が降らずともあなたが引き留めるなら私はここにいる。」主人公の孝雄はこのことに梅雨が明け雨が全く降らなくなってしまった後に気がつき晴れた日にその公園に向かうとそこには雪乃がいる。ここでは、孝雄は雪乃が高校の教師であることにも気づいており、ここから一気にクライマックスへ近づく。

クライマックスはここでは書かないがお互いの気持ちを全力でぶつけ合う感動的なラストである。「歩く練習をしていたのはきっと俺も同じだと今は思う」という言葉を最後に主人公の孝雄が後書きのように放つ。歩く練習という表現は雪乃も映画の中で使っていた。雪乃の場合の歩く練習というのは、嫌なことも受け入れてもう一度立ち直るということであり、孝雄の場合は成長するということなのだろう。

この映画を単純な恋愛映画として見ると27歳の女性が高校生をはぐらかしているような映画に見えるかもしれない。だが他の見方をすれば、少年目線では、自分を肯定してくれる場所、雪乃目線では、夢を追いかけた少年の前しか見てない強さという、お互いの足りない部分を埋め合い共依存している2人の切ない物語であると思うだろう。また、このストーリーは雨と靴がキーワードになっているのでこれに注目しながら見ることでストーリーをより深く知ることができ面白いだろう。

この映画は、有名な映画監督である新海誠の映画である。新海誠の映画は描写がきれいなことで有名である。そして、この映画は一時間にも満たない短編なので、とても見やすい。見た人はこの短い時間でこんなにも感動することに驚くだろう。ぜひ一度見てみるべき映画だと私は思う。

<審査員コメント>
構成や作品の紹介と自身の見解のバランスがよく、全体的に整い、まとまっていた。

©現代社会学部書評コンテスト実行委員会