見出し画像

無知なりに書く、平和の輪を広げたいから

「あなたの画像を使用しました」

 今日はこの通知をたびたびいただいた。そう、この見出し画像。下記の記事で使用し、先日「みんなのフォトギャラリー」に登録したものだ。使ってくださったみなさんに感謝するとともに、私が何も言わず祈りを捧げる間に、同じように世界平和を心から願う人たちがこんなにいるということに希望を感じた。

 撮影したのはちょうど十年前になる。
 父と広島で落ち合い、初めて目の前で見たとき。テレビや本で何度も観て、読んでいたけれど、生で目にすると、何も言えなくて。平和記念資料館は、見て回るだけで苦しかった。展示物に宿る魂の、命の苦しむ声が聞こえるようで、気持ちが伝わってくるようで。想像しようとしなくても、頭が思い描いてしまうのを、気持ちが引っ張られてしまうのを止められなかった。
 でも、実際に被爆された方がいる。毎日のように思い続けるのは苦しいし、難しい。平和を願うことはあっても、日々を生きていくために心身を守ることを優先して、過去としっかり向き合うことから目を背けてしまっている。
 だからこそ、折に触れて、それは、日本が被害を被った日以外でも、向き合うときは真剣に考えるようにしたいと思っている。

 私は、恥ずかしながら、世界史を理解しきれていない。長いカタカナが苦手で、各時代の複数の国の状況を並行してつかむのが難しく全然点数が取れなかった。だから、受験科目は日本史と倫理・政経を選んだ。世界史にしっかり向き合ってこなかったことで、知らないことが多いことを大人になって反省するとともに、一生をかけて勉強しなくてはならないと思う。
 「無知の知」というあまりに有名な言葉がある。この意味を実感したのは、大人になってしばらくしてからだ。知らないことで、自分の発言が誰かを傷つけるということにすら気づかず発してしまっていた。それに気づいたのは、しばらくして自覚してからのことだ。

怖い、と思った。知らないということが。

 自分が知らず知らずのうちに加害者になってしまうということなのだとわかったからだ。恥じるだけでなく、ちゃんと学び、本気でアップデートしようと思う。私が尊敬する、頻繁に脳に更新をかけている方々ですら、アップデートが足りないことで責めに遭ってしまうという悲しい現実を目の当たりにしてしまったから。
 私の普通、当たり前は、誰かにとっては普通、当たり前ではない。

 断絶というのは、いろんなところで起こる。
 たくさんの壁が、断絶を引き起こす。経験。世代。言葉。文化。教育。歴史。性別。宗教。人種。政治。壁は幾重にも重なり、もたれ合い、融合し、越えようとする者を容赦なく阻む。なんとか破ろうとしても、それを不都合に思う者たちによって押さえ込まれたりする。
 それでも、一個人でも、自ら調べて学ぶことはできる。本やテレビ、漫画だっていい。時に現地に赴くこと。余裕がないと難しいけど、余裕ができたときに少しでもやるのとやろうとしないのとでは、結果が全然違ってくるはずだ。
 ずっとでなくても、何かをきっかけに、能動的に、自分のできるところから切り拓くことで、未来は明るくなる。一個人が二人になり、三人になり、と増えていけば、一筋の光だったものが、どんどん明るい道になっていく。

 拙い記事でも、読んでくださった方が考えてくださるから、今日ちゃんと書こうと思った。あの日、写真を撮って、その写真をみんなのフォトギャラリーに登録してよかった。そうでなければ、一人祈りを捧げるだけに留めていたと思う。発信するのは、軽々しくできることではないから。それでも、使ってくださった方の思いを受けて、私も筆を執らねばと思った。
 最初に引用した記事にじっくりしたためたが、今日の思いを書き残したかった。

 無知側が何を言っても言い訳にしかならないことを承知で、それでも伝えたい。
 私は無知な人間で、いっぱい失敗するし、間違う。間違いに気づけないままでいることもある。そのままは嫌だから、アップデートを続けたい。いろんな経験を積んで、勉強して、いろんな人と関わって、研鑽を積んでいこうと思っている。
 だから、間違った発言をしていたり、適切でない恥ずべき表現をしていたとき、遠慮なく間違いを指摘してほしい。

 しかし、その指摘の仕方を、少し立ち止まって考えてから伝えてはいただけないだろうか。学んで、それをアウトプットするのは、かなり勇気がいる。センシティブな内容だと、より。それでも、一人の思考に留めたくなくて、善し悪しはともかく考えるきっかけになりたくて、書く人たちは著すんだと思う。
 そうして、緊張しながら「公開」ボタンを押した後。辛口の痛烈な批判が殺到したら。公の場で晒し者になったら。
 その標的が自分になったら……。
 とてもとても苦しくて、トラウマになって、関わることすら拒絶しかねない。学びの対象からも、指摘してくれた方からも、著す場からも。
 それを傍目で目の当たりにしてしまったことがあって、こちら側まで苦しくなった。そして、迂闊に発言できないと思った。もちろん、慎重に、そして、真剣に言葉を選ぶことは、書き手としての責任を果たすために大前提としてある。それでも、人は間違うから。その間違いに対して、間違えた人に対して、叱ることはあってよいと思うし、あるべきだ。でも、怒らないでほしい。怒りに任せて言葉で殴りつけても、平和どころか溝を深めてしまうだけのように思う。
 そして、自分があることにおいては無知の側に立っているということを、自覚したほうがよい。それだけで、自分事として捉えられる。すると、反対の立場になったとき、自分がされたらどう思うだろうか、と立ち止まることができる。自戒を込めて書いている。

 平和の輪を広げたい。

 いろいろ、個人の問題だけでなく、国レベルの問題で大きな差があって、そのせいで個人がいがみ合わされている現実がある。無知は悪い。でも、無知にさせる社会もよくない。

目的は、平和のため。

 ゴールは一緒だ。その歩みの過程で、相互理解を深めるために、まずは否定からでなく、歩み寄ろうとする姿勢で教えてもらえたら、あなたのことをもっと理解させてほしい、そのために学びたい、がんばりたいと思える。
 これを書いている今も、正直めちゃくちゃ不安だ。もうすぐ「公開」ボタンを押す。何度も推敲して、しばらく思い止まって。ようやく押した、その後の通知が怖い。開く手はきっと震えている。

 ただ、普通の幸せを求めて生きる。
 これが贅沢な世の中になりつつある。だからこそ、過去の過ちを繰り返したくない。いや、今もこの世界では、悲しい出来事が起こってしまっている。続いている。
 私たちは、都合よくいがみ合わされず、「和を以て貴しと為す」の心をもって、理解を深め合えたらと思う。今をよりよく、未来を明るくするために。
 今日を生きている人が、幸せに一日を終えていることを切に願って。

サポートしてくださる方、ありがとうございます! いただいたサポートは大切に使わせていただき、私の糧といたします。