タイトル

タイトルが浮かばないから、ド直球に「タイトル」というタイトルにしたわけではない。
最近、下書きのタイトルと、実際のタイトルが必ずと言ってよいほど違う。書いて推敲するうちにいろんな表現が改まっていくのはよくあるが、タイトルが変わるようになったのは、書き始めた頃からの変化の一つだ。

前にも書いたように、名は体を表すと私は思う。だから、小説の登場人物名にも悩むが、作品名にもうんと悩む。
下書きのタイトルがありきたりの、仮タイトルというわけではない。意外と、下書き段階で結構考えに考えてつける。タイトルがビシッと決まると、書く方向性も定まる気がするからだ。
書き進めて、いざ読み返すと、このタイトルでいいの? と頭の中の私が問うてくる。そうして、気づけばタイトルを書き直しているのだ。
正直、どちらがよいのかわからない。やっぱり、元のタイトルがよかったのかもしれない。そのタイトルで書き始めたんだもの。なんて、世に出してから悩むこともある。
でも、よほどの思いがない限り、タイトルを公開後に変更することはない。たまに、あ、こっちのほうが絶対いい!と何度目かの読み返し後に思って変えることがあるんだけれど。

人物名と作品名で、共通点と相違点がある。
共通点は、私の作品に出てくる人物も、私の作品も、私にとっては大切な子どもみたいなもので、その子どもに贈る大事な称号であるという点。
相違点は、人物名がどうであろうと、作品の良し悪しにそこまで影響しないが、作品名にはその作品を作品たらしめる影響力が備わっているように思われるという点。具体的に言えば、作品名を読んでその作品を読むかどうかを決める人がいるし、作品名自体が一つの作品であり、作品との結びつきが弱い作品名だと、作品名ばかりが独り歩きし、読み手が齟齬を感じてしまう。
なんだか、ここまで書いてきて、タイトルやら作品名やらがゲシュタルト崩壊を起こしそうである。

私は、ひとりでも多くの人に、この作品が響くといいな、と願いながら、そんな人たちに向けての責任を担いつつ、読後感が悪くならないようにと細心の注意を払いつつ、基本的には気ままに楽しく執筆している。先日呟いたように読みたいものを書けるようになりたいが、その域には当分達せないなぁと、ここ数日書きながら身に染みた。そう思って書いても、やっぱり書きたいことを書いてしまうし、読みやすさとか、気持ちよさみたいなものを優先しようとすると、どうしても書きたいように書けない。まだそのへんのバランスをうまくとれないので、そこを課題としながら、書くことと、いろんな作品に触れることを繰り返すしかないかなと思う。
こうして書いた作品が、まだまだ拙いながらも、読まれることを、できれば琴線に触れることを祈っている。その願い、祈りを込めてつける名は、やはりこだわりたいし、第一印象になるから大切だと思って悩む。子どもの名をつけるように候補をたくさん出したり、一旦つけて読んでみて直したりを、下書き段階で行う。
それを、このフォーマットに落とし込んで清書し、通して読んでみたとき、タイトルが腑に落ちなければ潔く変える。
多分、書くことを重ねて、一つ一つの作品への思い入れが強くなり、それだけ悩むようになったのだと思う。

noteで新しく私の作品を見つけてくださる方の多くは、タグ検索で探し当ててくださっているのだと思う。もしくは、スキさせていただいたお礼に読みに来てくださっているかもしれない。たまたま見つけて何がきっかけで読みたいと思ってくださっているのかは、読み手の方々にしかわからない。
私自身は、自分の作品を客観的に読めない。あくまで書き手として、大丈夫かな、粗いな、くどいな、整合性とれてるかな、嫌な気持ちにならないかな、説諭っぽくなってないかな…とそういった目線でしか読めない。数年後に読んだら、もう少し作品自体を味わったりできるものなのだろうか。
読み手のみなさんが作品を見つけたとき、おそらく、というよりこれは私の読み方だが、作品名に惹かれ、書き出しの数行を読んで後を読むかお決めになっているだろう。人によっては、読むと決めたらなんとしても最後まで読むとお決めになっているかもしれない。それでもの足りん、思ってたんと違うとお思いになっていたら申し訳なく思う。プロではないが、貴重なお時間を割いていただいているので。ただ、文筆家を名乗ってはいないのでどうかご容赦いただきたく思う。
タイトルが、どうか作品と融合し、相互的によい作品たらしめていますように。

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