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魂揺さぶる名作漫画 『孤高の人』 を知って欲しい①

 最近山岳漫画って話題になる事が多いですよね。
 有名どころだと、『岳』『神々の山嶺』なんかは小栗旬さんや岡田潤一さんなど、超イケメン有名俳優を起用して大々的に映画化してたりしますし、『山と食欲と私』では山ガールに入れ食い状態のキラーコンテンツ「食」を掛け合わせてぐんぐんと売り上げ部数を伸ばしています。
 そんな名作揃いの山岳漫画の中でも僕が特に愛しているのが『孤高の人』という漫画です。

※1枚目は筆者がネパールのエヴェレストベースキャンプを訪れにヒマラヤ山脈を訪れた時の標高5,400m地点から見た日の出の景色です。

※2枚目は1枚目の地点の少し下、5,100m地点にある山小屋に残された『神々の山嶺』出演者の方々のサインです。阿部寛さんのサインの個性が光ります。

登山家という存在について

 『孤高の人』について語る前にまず登山家というものに関して軽く考えてみたいと思います。
 僕は登山はたしなむ程度で山に関しては専門家でもなんでもありませんが、登山家というものに小さな頃から惹かれ続けています。それには理由があります。

 「命懸けで努力する」、などというように「命懸け」という言葉があります。日常で使われる多くの場合「高い熱意を持って」や「がむしゃらに」などと同義語で使われることが多いように思います。

 しかし登山家、特にプロとして活動する登山家(プロ・アマの区別は曖昧ですがここではハイレベルな登山を行う人)にとって、「命懸け」という言葉はまさに文字通りで、それぞれの登山において常に「自分の命が継続するか終了するか」という2択を背負って挑んでいます。世の中に危険な職業はたくさんありますが、登山家ほど実際に命が失われるという事を側に感じながら行動している人はいないと思います。

 wikipediaなどで過去に活躍した国内外の登山家達を調べればすぐに分かりますが、信じ難いほどの割合で山で命を落としています。そしてその山に命を捧げた人たちの事を調べると、山というものがいかに全ての人に平等に無慈悲であるかという事を痛感します。

 その人が歩んできた人生の歴史、登山にかける熱い想い、支えてくれる大切な家族や仲間の存在、気が遠くなるほどの努力で長年培った技術や経験。
 そういった人が積み重ねてきたかけがえのない様々なものを歯牙にもかけず、ある日突然山は牙を剥き、命を奪います。

 山には決して人知の及ばない圧倒的な「自然」があり、人間の世界には決して存在しない完璧な「平等」があります。
 登山家とはその圧倒的存在に自らの命を全て使って対峙しようとする存在なのです。

 日本では残念ながら本当に実力がある登山家であっても、多少メディアに出ることはあっても世間の大部分に認知される事はまずありません。それは日本人の中で登山家の社会的地位がそこまで高くない事、それに多くの登山家がそういったメディアに対する自己顕示欲求を持っていない事が主な理由だと思います。彼らは大衆からの評価ではなく、ただ自分の純粋な欲求を糧にこの壮絶な戦いに挑んでいます。
 地上に降りさえすれば平穏な暮らしが叶えられる日本。その中において平穏とは真逆の世界に飛び込んでいくその姿は美しく、どうしようもなく惹かれてしまうのです。

山岳小説の名作 新田次郎の『孤高の人』

 漫画『孤高の人』には原作があります。それは新田次郎さんが1969年に発表した小説『孤高の人』です。新田次郎さんはこの作品の他にも多くの山岳小説を執筆されていますが、特に有名なのがこの本です。

 加藤文太郎という実在の人物をモデルにした実話ベースの小説で、加藤文太郎の山を通じた生涯が生き生きと描かれています。できればこの小説も漫画の前後に読んでいただきたいです。僕はこの本を父から勧められ、山に興味を持ち、漫画が発表されているのを聞いて手に取りました。
 僕も一度行きましたが、加藤文太郎の出身地である兵庫県北部の新温泉町には加藤文太郎の墓や、加藤文太郎記念図書館、「孤高の人」文学碑などがあります。記念図書館に展示されている加藤文太郎が使用していた当時の登山道具を見ると、本当にこんな装備で登山していたのかと驚きます。世界の登山の進化は道具の進化でもある事を実感できるかと思います。

 前置きが長くなりましたが漫画『孤高の人』については②で書きたいと思います。


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