見出し画像

【おすすめ詩集】中村明美『ひかりの方へ』~青森・ブラジル・人間観

 こちらの投稿で、中村明美さんの「いつか冬になる前に」という詩をご紹介しました。その詩が収録されている詩集『ひかりの方へ』をご紹介します。
 
 この詩集は、“自分”という枠組み、もっと言えば“自分”という命の重荷からちょっと解放してくれるような詩集ではないかな、と思います。ファンタジーなのか、現実なのか…、そんな不思議な魅力にどっぷり浸かり込んで、しばらく出て来れなくなるかも(笑)。青森のご出身で、ブラジルで暮らしたご経験のある中村さんならではの世界観を、下記にご紹介いたします。


▶「人はどこから来て、どこへ行くのか」を“感じる”詩集

 まず、冒頭の2篇「家を曳く」「釣りびとが帰って」を、ちょこっとご紹介します。
 「家を曳く」は、中村さんの子ども時代の実経験がモチーフでしょうか。住んでいた家を駅前から地蔵堂の隣へ曳家(※)によって移転したことと、その地蔵堂の情景を描いた作品です。
 (※曳家(ひきや):建物を解体せずにそのまま引っ張って移動すること)

その土地に桜は三本あって
地蔵堂の手水鉢が
鈍く光を溜めだすと
ある日
急に満開になった

一番奥の桜の下
深い草木に覆われて
湿った窪地があった
むかし
死人を火葬したという

黒い土を
棒きれで掘ってみると
貝殻ばかりが出てきた
土地でも
ひとでも
一皮むけば海臭いのだ

中村明美「家を曳く」より
詩集『ひかりの方へ』

戸の隙間から覗くと
地蔵堂の中は
濃淡の光が差し込んで
ひっそりと明るんでいる
水の中みたい
そう思ったら
ふいに眩暈がした

あれから
ずっと
家を曳いている

中村明美「家を曳く」より
詩集『ひかりの方へ』

 次の作品「釣りびとが帰って」は、私たちがはるか昔に魚だった頃、海だった頃の記憶を呼び起こさせるような作品です。

部屋は海に満たされて
太古から繋いできた
記憶が蘇る

あの無明の世界で
生と死を超え
混沌から生まれた
そして
いのちを分かち合った

中村明美「釣りびとが帰って」より
詩集『ひかりの方へ』

 この冒頭の2作品はともに、「人はどこから来て、どこへ行くのか」という問いを、読む者に静かに投げかけてきます。この詩集の全体像を暗示するような作品です。

 この「人はどこから来て、どこへ行くのか」という問いは、続く作品「新月」「六月に」に登場する人物(死んでいるのか生きているのかわからない人たち)によって、徐々に答えのようなものを提示していくのですが……、私がいろいろ言ってつまらなくなったらいけないので(笑)、ぜひお読みになっていただけたらと思います。

 この詩集は、“考える”より“感じる”要素の強い詩集だと思いますので、五感を研ぎ澄ませて、存分にお楽しみいただければと思います。

▶ブラジルと日本の情景を、高精細の絵本のように描く

 また、この詩集の大きな特徴の一つは、ブラジルの景色や小物がたくさん登場すること。中村さんは11歳~14歳、21歳~22歳を、ブラジルで過ごされたようです(奥付より)。

 中盤の3作品「ベレンで」「雄鶏考」「娘へ」では、ブラジルの景色が臨場感豊かに描かれます。

その店で ガラナと それをすり下ろすためのピラルクの舌。それから蛇皮の腕輪を買う。

中村明美「ベレンで」より
詩集『ひかりの方へ』

マナウスの上空で 急に森の匂いが強くなる あのひとが しきりになつかしがるので ここだと思い 遠くへ放ってやる。雨季の最中だ。じきに青年に戻るはずだ。

中村明美「ベレンで」より
詩集『ひかりの方へ』

遠く犬たちの喧騒を聞きながら今日最後の貧しい食事をとる。フェジョアーダとファリーニャ、そしてピラルクの塩漬け。

中村明美「雄鶏考」より
詩集『ひかりの方へ』

やがて森が喧騒に包まれる。弾けるような鳥の声 渡っていく猿の群れ 熱をおびた土の匂い。その朝 アントニオの胸に抱かれて 不機嫌そうな猿がきた。群れからはぐれたこどもの猿だ。それから 猿は日がな一日 ハイビスカスの木にいて 来客に飛びかかり帽子を奪った。

中村明美「娘へ」より
詩集『ひかりの方へ』

 絵本のように眼前に広がる、異国情緒あふれる情景。それは楽しいだけでなく、ブラジルの大自然と密接に共存しながら生きる人たちの人間観を、語らずとも伝えてくれているようです。私がこの詩集を“感じる”詩集だと思う、一つの大きな要素です。


▶つながる・めぐる、人間観・死生観

 ブラジルのことがメインに描かれた作品は、この詩集の全18作品の中で上記の3作だけですが、とてもインパクトが強く、この詩集の核を成しているように感じます。それはこれらの作品から、この詩集全体に漂う、「人の命は自然の一部であり誰のものでもない」というような人間観をもっとも強く感じるからかもしれません。
 例えば、下記。

子猿が死んだのは 父に背いて密かに名を呼んだからだ。ハイビスカスの木に結わえて 手ずから果実を与え自分のものにしようとした。だから 夜の明ける前に 美しい蛇がこどもを咬もうとしても 声を上げてはならない。少しの毒が こどもを強く育む。やがて青い草の繁る野に放つ その朝のために。

中村明美「娘へ」より
詩集『ひかりの方へ』

 私はこの、人の命を親や子といった関係に縛り付けることなく、過大評価することも過小評価することもない、またそうあろうとするような感覚がとても好きです。

 また、始まりと終わり、誕生と死亡は表裏一体なのだと感じる表現も大好きです。

公証役場の果たされない約束や
こどもの声が満ちた墓場を過ぎて
どこかで星がぶつかる音を聴きながら

博物館で降りて
きりんの骨を見たのだ
(ああ
 生きていけるのだね
 一億年でも私たち)

中村明美「博物館で」より
詩集『ひかりの方へ』

 この詩集にはそのような、自分の命を時間的にも物質としても俯瞰できる詩が満載で、私は読んで、とても解放された気分になりました。そんなに深刻に“自分”とか“個”であろうとしなくても、すべては巡って繋がっているのだから大丈夫かな…と。それはこちらの投稿で一篇全文をご紹介している「いつか冬になる前に」にも通じることです。

 ぜひ詩集のすべての作品に触れていただいて、つながる・めぐる命を“感じて”いただけたら、と思います。

いいなと思ったら応援しよう!