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母はしばらく帰りません 8

 夕飯はキムのお得意のラム肉のカレーだった。匂いを嗅ぐだけでワクワクして、ビールが飲みたくなる。
「なるほど、そんなことで一日を無駄に費やしたのね」
 昼間、キムが結婚してこの家を出て行った後のことを考えていて、仕事も手がつかなかったことを告白すると、キムはご飯をよそいながら言った。
「私が結婚して出て行く日が来るなんて、最初っから分かっていたことじゃない。今更なんだっていうのよ? クヨクヨしていないで、あんたも早く男を見つけるとか、家を買うとかして頂戴。私が安心して出て行けないじゃないの!」
「そうか、心配で出て行けないか。それはいいことを聞いた」
「馬鹿ね。結婚することになったら、あんたが泣こうが心配だろうが、さっさとおいて行くわよ」
「ふーん、そんなところまで話が進んでいるんだ?」
と、輝子が言うと、キムは急に決まりが悪そうに、
「ま、それは例え話よ」
と呟いた。輝子は少し安心した。
「とにかく、あんたも少なくとも彼氏を見つける努力くらいはしなさいよ。こんな美しい私だって独身なのだから、あんたにだってチャンスはあるのよ」
と、よくわからない理屈を持ち出す。
「あー、でも確かに、美人だと萎縮しちゃう男は一定数いるね」
 輝子は納得した。例えば、知り合いの独身男性にキムの写真を見せれば、誰もが間違いなく美人だと褒めそやすが、是非会いたいと、積極的な姿勢を見せるのは案外少ない。こっちから勧めてみても「綺麗すぎて無理」と、腰の抜けた対応で逃げられたことさえあった。
「そうよ。大体ね、美なんて人によってこれほど価値観が違うものもないの。美人だからって幸せが確約されているわけではないの」
と、キムはきっぱりと言い切り、口一杯にカレーを頬張った。
「それじゃさ、キムは整形しなけりゃ良かったって、思ったことある?」
「全然」
と、これまた何の迷いもなく言い切った。
「まだ元が取れていないな、と思うことはあるのよ。なんせこの顔にはひと財産かかっているのだから」
 それだけではない。定期的にジムやヨガ教室に通い、外食ばかりにならないようにマメに自炊し、肌や髪のメンテナンスも怠らない。他人事ながら、感心するような努力だった。こういうところを見てしまうと、自分が「美人でなくて良かった」と僻みなしで思えて来るのだった。
「でも、私は自分の為に美しくなったのだから、仕方ないの」
 キムは自分の整形のことを隠さない(むしろ自慢している)。しかし、それを嫌がる男も多いらしい。
「そういえばさ、キムはどうして整形しようと思ったの? 聞いたことなかったね」
「あら! 言ったことなかったかしら?」
 キムはキョトンとした顔をした。友達としてもハウスメイトとしても長くなるのに、なぜかそこは聞いたことがなかった。
「ずっと一緒に暮らしてきて、もうお互いのことはほとんど知っていると思っていたのに、おかしいわねえ」
と、ケラケラ笑った。
「私がね、美しくなろうと決心したのはね、これのせいよ」
 キムは唇の端に、ちょこんと絵筆の先で描いたようなホクロを指した。
「ホクロ?」
「そ。どう思う、このホクロ?」
「どうって言われても」
 大き過ぎず小さ過ぎず、場所のせいもあってかちょっと色っぽい。
「なんか、セクシー?」
「でしょう? でもね、それはこの綺麗な顔がバックグラウンドにあってこそ、なのよ!」
と、キムは声を強めた。
「私が学生の頃よ。クラスの仲のいい子達と集まって、ご飯を食べていたの。食堂でね。多分、カレーとかチリコンカンとか、そんな感じの食べ物だったと思うわ」
「うん、分かった。カレーだね」
と、輝子もラム肉の大きな塊を頬張って頷いた。
「分かって欲しいのはね、別にその人は悪気があった訳ではないし、私が彼に特別な気持ちを持っていた訳でもないの」
「うん。それで彼は何て言ったの?」
「……口の横に、食べカスついてるよって」
 キムは芝居掛かった身振りで、口を手で覆って、体を震わせた。
「食べカス、と言うと、それは、ゴマとか米粒とか、その類の」
「そうよ! その時の私は美しくなる決意を固めたの。美しい顔にはセクシーなホクロでも、ブスの顔についたホクロは、食べカスかハナクソにしか見えないのよ! わかる!」
「いや、誰もハナクソまでは、言っていないから」
「美人の顔についていたら、ハナクソだって素敵なホクロに見えるのよ? 何ならやって見せようか?」
「結構だよ。でもさー、こう言っちゃ何だけど、顔いじるより、顔を変えるより、ホクロを一個除去した方が手っ取り早かったんじゃないか? 少なくとも、かなり安上がりだったことは確かだね」
「何言っているのよ!」
と、キムは興奮で美しい顔を紅潮させた。
「あんたは何も分かっていない! ちゃんと私の話を聞いていたの?」
「聞いていたさ」
「このホクロには、何の罪もないのよ?」
「うーん、そうだね。あ、おかわり」
「あ、はいはい」
と、今までの興奮ぶりはどこへ行ったのやら、いそいそと空になった皿に、米を山のように盛り付ける。
 キムが顔をいじる前の写真を見たことがあった。本人がブスを連呼するほどひどい容貌には見えなかったが、ブスと信じる心の影が、全身をくまなく覆っていた。
 多分、整形前のキムと今のキムと、変わったのは見た目だけではないのだろう。
 少なくとも、こんな面白可笑しい人ではなかったような気がする、と輝子は思った。

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