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母はしばらく帰りません 6

 
月曜日の朝。
「じゃ、行ってくるねー。帰って来たら、美味しいものを作ってあげるから」
と、キムが慌ただしく出勤して行った後、輝子は紅茶のマグカップを片手に、パジャマ姿のまま仕事机に向かった。母が見たら嫌な顔をするだろうが、輝子はこんな自堕落でお気楽な仕事スタイルが気に入っている。自営業の特権だ。
 休日の早朝の電話以来、父からの連絡はない。母は今頃ロシアで何をしているだろう?
 輝子は携帯電話を取り出して、サンクトペテルブルクの現在時刻を調べた。なるほど、ロンドンより二時間進んでいる、と言うことは、朝の十時頃。ホテルで朝食を済ませて、ガイドブック片手に街に繰り出している頃だろう。ついでに天候も調べようと、指を動かしかけて、ハッと止めた。
 いけない、いけない。こんなことして遊んでいる場合ではない。幾らで急ぎの仕事ではないと言っても、自分で決めたノルマをこなしていかないと、あっという間にパンクする。自営業の特権と自由は、コツコツと地味に積み上げた作業に裏打ちされてこそだ。
 しかし、今日ばかりは気が散って仕方がなかった。
 気分転換に、何か食べるか。そういえば今朝はお茶だけで、他に何も口にしていないことを思い出した。外に食べに出かけるのも億劫だし、時間が勿体無いし、ここでパパッと手早くお腹に溜まるものを拵える、ことが出来れば、それは全く理想的なのだが、残念なことに、それは輝子には備わっていないスキルだった。
 家を出てから、もう十年以上経つが、その間の輝子の食生活は、冷凍食品専門の大手スーパーマーケットに支えられている、と言っても過言ではなかった。
 イギリス伝統食のローストディナー(牛、豚、鳥、羊、七面鳥、何なら菜食主義者向けのナッツで作った代用肉だって、選び放題だ)、パエリアやラザニアやカレーと、種類は豊富だ。怖くて試したことはないが冷凍スシだってある。値段がお手頃なわりには、味も悪くない。おまけにロンドンだけではなく、イギリス全土で展開している大手チェーンなので、国内ならどこに引っ越しても大丈夫だ、と輝子は安心している。
 このメーカーのチキンティッカ・マサラ・カレー(ご飯付き)を、多い時には週に三回も食していた輝子だったが、キムと同居するようになって、その回数はガクンと減った。
 見かけによらず、と言っては失礼だが、手入れの行き届いた美女は、その綺麗な爪を守る為に包丁を握らないイメージがあるが、キムは非常に料理上手だった。爪も美しく整えてはあるが、短く清潔だ。そして作った料理を振る舞うのも大好きだった。
 作り方や食材に関する蘊蓄が多少うるさいが、輝子が知る限りでは、世界で二番目に美味しいご飯を作る人だった。
 もっとも最近のキムは、仕事やデートに忙しく、料理にかける時間が少なくなっていたので、輝子は今晩の夕飯を心から楽しみにした。近頃オンラインで知り合った男性と、ちょくちょく会っているようだ。これから、ご飯を作ってもらえることも少なくなるのかな、と何気無く思って、どきりとした。
「もう三十二歳よ? そろそろ家庭や子供を持つことを考えても、決して早くはないのよ?」
 先日、母に言われた言葉が蘇って来て、輝子の心を暗くさせる。
 キムが結婚して、この家を出て行くことになったら、どうしよう……。
 ご飯のことだけではない。キムと一緒に暮らせて本当に良かったといつも思っている。そして、現実的な問題もある。今、輝子とキムが住んでいるのは、勿論借家だが、エドワード時代の一軒家の二階と屋根裏に当たる部分を改装した、今時のアパートだ。一階と地下部分は、それぞれ独立したアパートで、若いカップルと一人暮らしの中年男性が住んでいる。
 住居費が滅茶滅茶に高いロンドン市内、当然この住処だって、決してお安くはない。しかし、駅は近いし、輝子の命綱である冷凍食品のスーパー、図書館、ATM、生活に必要なものは全て歩いていける範囲にある。
 二階にキッチンとリビング兼ダイニング、トイレ。屋根裏部分にバスルームを挟んで寝室が二つ。寝室の端には、斜めの屋根のせいでおかしな空間が出来てしまっていたが、しかしそこをキムは移動式のハンガーラックを取り付け、引き出し式ワードローブに作り変えた。輝子は安く買って来た木材で作った本棚と、リサイクルショップで買った細長いサイドテーブルをはめ込んで、ちょっと秘密基地のような雰囲気のある仕事場を作った。
 それはとても居心地の良い巣だ。
 もしキムが結婚でもして出て行くことになったら、輝子一人で家賃を払うことは到底無理だ。ここを出て行くか、新しい同居人を見つけないといけない。半分の家賃を払える定期的な収入があり、そこそこ綺麗好きででも潔癖症ではなく、生活感覚が似ていて、サイコパスでない、他人を。
 それはロンドンという大都会で暮らす、独身の男女の現実だった。

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