中秋の名月

先日、満月であった。それを見ながら、思うことがあったので少し書くことにする。

秋の満月を愛でるのは、芋の収穫を祝う習慣に由来しているらしい。しかし、季節の習慣とは関係なく、秋の満月には人を惹きつける魅力がある。春から夏にかけては、湿度が高く月もハッキリとは見えない。一方で、気温が下がりきった冬には月の位置が少し低すぎる。すると、気温も低く、月の位置もまだ高い、秋頃が月を見るには最も適した季節だということになる。

月は、直接見るのではなく、光沢のあるものに反射させて見るのが美しい。海に光る月光は、波に揺られてずっと見ていても飽きさせない。陸から沖にかけて作られる「月の橋」は、我々をどこか別世界へといざなわんとしているようだ。もしそこに橋がかかっていれば、人は月光の美しさに惹かれて、その橋の尖端にまで行こうとするだろう。

月が美しいのは、月それ自体が美しいからではない。月はそもそも、日中にも出ているものだ。月が真に美しく感じられるのは、月以外に輝くものがないからだ。周囲は真っ暗で、月と私以外に世界は存在しないかのような錯覚を起こさせる。だから、星も見えないような曇の時の月には、どこか恐ろしさを感じさせるような、背筋を冷ややかにさせる美しさがある。雲間に映る月光は、私の意識の危うさを表現しているようで、自分自身が今ココに立っていられなくなるような不安を感じせしめる。

月の美しさは従って、宇宙に感じるような物理学的な、ユニヴァーサルな美しさではない。むしろ、いつも日常的に見えているものが見えなくなって、世界の裏側に入り込んでしまったような、世界が逆転したかのような、外界の人間が奈落の世界へと通ずるような、妖艶な美しさなのだ。

次第に暗闇に目が慣れると、月はより一層美しくなる。いつもは太陽の下で、正義と平等の輝きによって守られていたものも、陰影の作り出す光と闇によって、この世の暴力や、人間の愚かさを見ることができるようになるのだ。その世界の暗闇の中で、ただ一つ、朧気に光っているのが、月なのだ。それは、我々が世界を見えるようにしてくれるための光ではなく、我々が世界の裏側を見えるようにするための補助光なのだ。

だから人間は、月夜の下ではいても立ってもいられなくなる。ぶらぶらと、どこかを歩きまわっていなければ、世界の不安定さに精神はやられてしまうだろう。いつも定住している場所ではないどこかへ向かって、歩き続けなければならない。しかし、未来も希望も持たずに。ただただ不安でしょうがないのだ。だから、歩かねばならない。

月夜の輝く日に、7つ橋を願掛けして渡れば願いが叶うという迷信は、中秋の美しい月によって照射された、我々の不安ゆえに生まれたに違いない。夜は人を眠りにつかせ夢を見させるが、秋の月夜は、夢見る身体をどこかへ、ふらふらと連れ出してしまうことだろう。「夢と狂気」が、俗世の人間を魔界へと引きずり込んでしまうのだ。かぐや姫も、この美しい月に呼ばれて帰ってしまい、残された人間たちは、失意の底に沈むのだ。

秋の月は、ただただ人を不安にさせる。その恐ろしさが、なんとも美しい。中秋の月には、そんな魅力がある。

2016.09.18.