『エロスとオカルト』サンプル記事

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『時空間に関する試論』

 演劇に美的体験があるとすれば、それは時間と空間がア・プリオリであるという前提に基づいている。カントの言うように、我々はこの世界に生まれてから、何かを体験する以前に既にこの世界の時間と空間の中に存在している。時空間は我々よりも以前に在るのであって、この世に生れ落ちる以前に既に時空間を認識するということは不可能である。

 我々が「時間」や「空間」を認識する時、それはア・プリオリな時空間を認識しているのではなく、還元された人工的な時空間を認識している。それは、理論の帰結としては、そうなるし、そうならざるを得ない。「時間」は絶対時間によって分節化されているし、主観的な「時間」もまた、ア・プリオリな時間を主観的に還元したものである。

 上演時間とか、舞台空間と言った場合、それはア・プリオリな時空間を指してはおらず、人工的な「時間」と「空間」を否が応でも意味しているし、意味しなければならない。一度、この原点に立ち返ってみよう。

 「何もない空間」――これはむろん、ピーター・ブルックの有名な標語であるが――とは、ア・プリオリな時空間のことなのだろうか。それとも、満たされたオープンな空間なのであろうか。何もない空間の中で、俳優が客席の前を通り過ぎる。それは、ア・プリオリな時空間の中で、俳優が人工的に時間と空間を構築することである。この時、舞台上の余剰――空虚――は、一人の俳優の存在によって満たされることになる。確かに、舞台上は空虚ではある。俳優の身振りによって零度という基準が導入されることで、それは意味のある空虚へと変わる。俳優が動いた軌跡がプラスだとすれば、残りの空間はマイナスになる。空虚は満たされた空虚へと変わる。

 「満たされた空虚」――この言葉は、なんとも言えない神秘的な響きを持っている。もしくは、ある特定の人にとっては極めて魅力的に聞こえる言葉に違いない。なぜなら、この空虚は物質的な意味で存在はしていないけれど、知的には存在している、形而上的な時空間だからだ。……暗闇の中で、観客は次第に闇に目をならし、静けさを聞く。すると、ぼんやりと俳優の像が見え始め、俳優は声を発する。……この、まさにメーテルランクの暗闇は、知的にしか成立しえない。形而上的な、もしくは悲劇的な時空間である。

 観客は、持続する時間と空間に耐えることができない。劇場に暗闇と沈黙をもたらしても、観客の方が動き、音を出してしまうだろう。そうでなければ、ぐうぐうと鼾を立てながら、ゆっくりと眠りにつくだろう。ア・プリオリな時空間の訪れは、人を恐怖に陥れる。従って、ア・プリオリな時空間は絶対である。

 「満たされた空虚」とは、このア・プリオリな時空間の中に零度を持ち込む。時空間はあますところなく、意味を持ち始める。だから、この時空間は「満たされて」いるのである。「なにもない空間」とは、ア・プリオリな時空間ではなく、「満たされた空虚」である。

 劇場において、美的体験があるとすれば、この余白へ向かう認識が自覚された時である。それは俳優や舞台装置、音楽の奏でられた時間ではなく、どこにでもあり、誰しもが利用することのできる「なにもない」時空間がマイナスの時空間として把握される時である。つまり、俳優にせよ舞台装置にせよ、舞台上にあるものは全て、このマイナスの時空間にとって対照的なプラス=余剰なのである。この時、観客はどこか俳優と空間の間に大きな溝を感じるに違いない。目の前にいる俳優がより彩りを持って、冴えた声をして、周りの空間をゆがませているような、何かそのような印象を持つに違いない。それは、空間というマイナスと、俳優というプラスのその対照性によってハッキリと上演空間を認識しているからである。

 演劇がもしこの時空間を利用しているのだとすれば、演劇にはア・プリオリな時空間を利用して商売をする権利はない。こうした商売は誰でも、人がいる前で絨毯を敷いて、踊って歌い出せば出来るのだから。「なにもない空間」が作品としての価値を高めることになれば、それはただ単に我々の生活が多く喧騒に満ち、情報過多の中で生きているに過ぎず、反動に過ぎない。こうした体験は「美的」なものであったとしても、まだ舞台空間や上演時間を作り出してはいない。

 従って、「満たされた空虚」を「なにもない空間」だとみなすことは、上演の時空間に「自然さ」ないし「優美さ」を持ち込む、エロティックな判断をすべからく含むことになる。なぜなら、俳優は「なにもない空間」から出てきたのではなく、それをまさに作り出すのだから。確かにア・プリオリな時空間は「純粋」であり、「優美」である。しかし、「なにもない空間」と言われる「満たされた空虚」には、既に人の手が入り込んでいる。それは「純粋」ではなく、「自然」でもない。人工的である。それを「なにもない」というのは、観客のエロティックな視線によるものであって、実際には「なにもない」はずがない。演劇にとって、世界を創造する唯一神は、この時点でそっぽを向いている。観客が、彼らが上演に参加せず、観客席から見ている限りは、神は我々を護ってはくださらない。神は全てを見ているかもしれないが、ご加護を与えてはくれないのである。

 観客という存在がいる限り、俳優を祭司のように扱うことは、中世のキリスト教のような特権を演劇に与えることになるだろう。それは演劇を腐敗させる原因となる。演劇が「伝統的である」とか「歴史を担う」と言われ、時間を越境すると真面目に受け止めることは極めて危険である。何も知らないフォリーは、実は何も知らないということを知っており、フォリーが何も知らないと考えている人たちの思考の限界を知っている。それは社会的諸関係の中で正当化され、「俳優は無知である」という言説によって俳優を聖別化している。

 確かに、そのような時代が長らく続いたし、現在もそうであることを我々は完全に否定することはできない。しかし、それはあくまで社会の中のエロティックな関係によって支えられているのであって、上演空間は「優美」ではない。

 こうした立場は、演劇における原理主義的立場であると言うことができるだろう。そして、むろん私はこの原理主義者ではない。

2013年7月13日

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