フレイムフェイス 第一話

再会のネイビーブルー (1)

 呼吸を、止めてはいけない。
 肺が、心臓が、酸素を欲しがっている。
 ひどく、苦しい。

 それでも、カドシュは息を吸う事を躊躇っていた。
 ほんの少しでも物音を立てれば。

「GRRRRR……」

 あの怪物に、見つかってしまうかもしれない。
 そんな恐怖と、否応なく鼓膜を刺す足音が。
 少年カドシュの小さな身体を、押し潰そうとしていた。

「う、ぅ」

 だが、屈する訳にはいかない。何故ならば。

「か、カドシュ、ちゃん」

 岩陰に隠れる、もう一人。幼馴染のアンバーまで見つかってしまう。
 そんな事は、絶対にあってはならない。

「だい、じょうぶ、だよ」

 息も切れ切れに、カドシュは答える。繋いでいたアンバーの手を、なお固く握りしめる。
 それから二人が身を隠している岩の向こう側、ショーウィンドウに写る異形の影を、カドシュはそっと見る。

 それは『海の向こう』で言うところのゴリラに似ている。
 ヒトに近しい形をした、しかし腕だけは異様に長く太い怪物。背丈は普通の成人男性よりも、優に二回りは大きいだろうか。全身は影絵のようにのっぺりした黒色で、鋭い目と牙並ぶ口腔だけが、篝火のように赤く燻っている。

 薄闇の中を徘徊する、影絵の怪物。まるで出来の悪い悪夢のよう。
 だが、それ以上に。カドシュ達の居る場所そのものが、よほど悪夢じみていた。

 カドシュとアンバーが今身を潜めているのは、苔むした大きな岩の陰だ。地面には短い草が繁っており、岩の向こう側では連なる木々が思い思いに枝を伸ばしている。つまりは森だ。

 しかし。カドシュ達が隠れる岩の陰側には、アスファルトの道路と、規則正しく並ぶビル街の風景が広がっている。先程異形ゴリラの姿を確認したショーウィンドウも、数メートルしか離れていない。

 カドシュ達は最初からこうした狭間に居たわけではない。そもそもこの近隣一帯には、森どころか緑地すら存在しなかったのだ。

 では、何故こうなったのか?

 単純な話だ。
 空間を、書き換えられたからだ。

 あれは五分前だろうか。それとも一時間前だったろうか。
 突如一帯に充ち満ちた、爆発的な魔力の高まり。カドシュ達はそれに飲み込まれ、回りに居た人々共々気を失い。
 気付けばいつものビル街と、見知らぬ森が混ざりあった、異様な場所に倒れていたのだ。

 まだ昼少し過ぎぐらいだった筈なのに、一帯は不自然に暗い。だがそんな事はすぐ些事になった。あの異形ゴリラが現れたからだ。それも一、二匹どころではない、相当な頭数が。

「GRRRRR……」「GRRRRR……」「GRRRRR……」
「な、なんだあのモンスターは!?」

 誰かが悲鳴を上げる。それが皮切りとなった。
 ゴリラ共は腕を巨大な刃に変じさせ、襲いかかった。老若男女区別なく、容赦もなく。

「GAAAAAッ!」「GAAAAAッ!」「GAAAAAッ!」
「うわ、うわあああああ!?」

 最初に手にかけられた人の末路は、まだ目蓋の裏に焼き付いている。

「GAAAAAッ!」

 素早く力強い怪物の刃が、カドシュのすぐ前に居た男性を切り裂く。
 あわや男性は一刀両断に、ならない。

「うわああ!?」

 その代わり、身体にはまっすぐな斬撃の線が残っており。

「わあ、 あ 、  ああ   、」

 その線を基礎として、電子回路のような光の葉脈が、根を伸ばす。
 根は瞬く間に男性の全身を覆い尽くし、光の塊になってしまう。
 出来の悪い粘土細工じみたそれは、音立てて形を変えていく。長く、高く、こねられる粘土のように。

「  あ  ああ     あ」

 程無く光は消える。魔力の葉脈が失せる。声も途絶える。
 そこに先程の男性は見当たらない。

 代わりに、存在していたのは。
 草の繁る地面に相応しい、一本の樹木であった。

 カドシュは、周りの人々は、それで理解する。
 如何なる理屈かは解らないが。
 男性は、書き換えられたのだ。
 存在をそのものを、樹木へと。

「きゃああああああッ!」

 甲高いアンバーの悲鳴。皮肉にもそれが引き鉄となった。
 遮二無二に、がむしゃらに、誰も彼もが逃げていく。カドシュもその流れの一部になった。絶対にはぐれないよう、アンバーと手を固く繋ぎながら。

 逃げて、逃げて、逃げて。
 走り、走り、走り。

 気付けば二人は、岩の陰で踞っていたのだ。
 四つの突起がため、地面から腹を少し浮かせている奇妙な岩。こんな状況になる直前まで、自動車だった事の証だ。その下に、カドシュ達は隠れるべきだったのかもしれない。だが遅すぎた。

「か、カドシュ、ちゃん……!」
「ど、どうした、の」

 アンバーの指差す先を、カドシュは見た。
 ショーウィンドウに写っている、自分の姿。青い髪。煤けた服。額から垂れる赤色に、今更気付く。
 次に、アンバーの姿。赤い髪。同じように煤けた服。カドシュより少し高い背丈なのは、屈んでいる今でも知っている。
 最後に、岩の背後。ぬらりと立ち尽くす、敵意漲る巨大な異形。
 目が、合った。

「GRRRRR……」

 陰が差す。
 カドシュは、じりじりと、顔を上げる。

「GRRRRR……!」

 そこには。
 車だった岩の裏側を覗き込む異形ゴリラの顔があり。

「きゃああああああああっ!!」
「うわ、うわああああああ!」

 弾かれたように、カドシュ達は駆け出した。

「GRRRRR……」

 意外にも、ゴリラはカドシュ達を追わない。静かに少年少女を目で追う。
 程無く、二人は立ち止まる。止まらされてしまう。
 何故ならば。

「GRRRRR……」

 カドシュの視界外。控えていたもう一匹が、木々の間から現れたからである。

「あ、あ」

 よろめき、後退り、尻餅をつくアンバー。その背後から、あからさまな足音。岩の方に居たもう一匹が追い付いたのだ。

「う、ぐ、ぐ」

 カドシュは動けない。敵が刃を振り上げつつあるのに。
 肩で呼吸する事と、アンバーの手を離さないようにする事だけで、手一杯だ。
 一つ息を吸うたび、むせかえる異臭が肺を刺す。それが本物の草木の臭いである事をカドシュが知ったのは、随分と後の事であったが。

 ともかく、この時。カドシュは死を覚悟した。

「GRRRRR……」「GRRRRR……!」

 だが、それは。

「そこまでにして頂きましょうか」

 ふらりと現れた一声に、掻き消された。

「「GRRRRRRRR……?」」

 カドシュの背後、緑地とまだらに混ざっているアスファルトの四車線道路。その中央分離帯に沿いながら、無造作に歩み寄ってくる男が一人。

「いたいけな少年少女を脅かすために、わざわざロングアームタイプを配置した訳ではないでしょう」

 歩きながら、男は話しかける。異形ゴリラ――ロングアームという正式名称のある敵へ。それを操っている何者かへと。

「それとも。誰かを探していたのでしょうか」

男は戦鎧套メイルスーツを着ている。『海の向こう』で言うところの、ライダースーツに似た戦闘服。胸や肩といった部位はハイブリッド・ミスリルのプロテクターで補強されており、メイルの名に相応しい堅牢さが見てとれる。

 腰には一丁の銃と、一振りの特徴的な剣。反り返った片刃のそれは、カタナと呼ばれる『海の向こう』の得物だ。
 ベルトのバックル、及び鎧の胸部分には逆三角形のエンブレムが光っており、男がエルガディア防衛隊の所属である事が一目で分かる。

 通常の敵対者であれば、或いはそうした所に目が行っただろう。
 だが、ロングアーム達は。恐る恐るそちらを見たカドシュとアンバーですらも。
 男の顔に、目を奪われていた。

 何故ならば。
 男には、頭部が無かったからだ。

 代わりに、そこへあったのは。

「例えば。そろそろ二百年くらいになるあなたがたの攻撃を、尽く凌いで来た異形の者とか」

 燃え盛る、紫色の炎であった。

 如何なる原理なのか、炎の中には黒色の仮面が浮いている。『海の向こう』で言うところのフルフェイスヘルメットを思わせる、奇妙なマスク。それを本来被るべき頭が炎に置き換わっているため、見ようによっては紫色の髪が逆立っているようでもある。

 どこかドクロにも似た無機質な相貌。その中で唯一意志を湛えた赤い目が、爛々と輝いており。
 そんな異貌の男を、カドシュは知っていた。

 彼こそは輪海国エルガディアの生き字引。建国から今日に至るまで、様々な戦いを潜り抜けて来た英雄。
 災害、紛争、組織犯罪。
 二百年近い昔から、エルガディアを守り続けて来た、燃え尽きぬ炎。

「GRRRRRRRRッ!」

 その炎に向かって、ロングアームの片割れが吼える。走り出す。
 刃に変じた両腕を突き出した突撃は、さながら暴走する機関車だ。常人がこのレール上に立たされたならば、いとも容易く消し飛んだだろう。

 だが。
 今このレール上に立つのは。

「フレイム、フェイス」

 カドシュが呟いた通りの名を持つ戦士、フレイムフェイスであり。

「ふ、う」

 独特な一呼吸と同時に、フレイムフェイスは前に出る。
 一歩、二歩、三歩目でやや大きく横へ動きく。ロングアームの突撃と紙一重で擦れ違う。
 それで、ロングアームは終わった。

 びょう、と風を斬る音。気付けばフレイムフェイスは刀を振り抜いており、四歩目を踏み出しながら納刀。

 同時に、擦れ違ったロングアームが倒れた。見れば、胴体が真っ二つに両断されている。一瞬の早業であった。

「GRRRRRRRR……!」

 残った方のロングアームはじわじわと後ずさる。カドシュ達の事なぞ忘れているかのよう。
 フレイムフェイスは進む。そして立ち止まった。未だ動けずにいたカドシュ達の隣で。

「君達、名前は?」

 フレイムフェイスはしゃがむ。炎に浮かぶ仮面が、カドシュに目線を合わせる。

「か、カドシュです。カドシュ・ライル」
「アンバー・シグリィ、です」
「カドシュ君にアンバーさんですね。では恐縮ですが、もうしばらくこのままでお待ち下さい。何しろ――」
「GRRRRRRRRッ!!」

 その時。フレイムフェイスの言葉をロングアームの咆哮が掻き消した。

「GRRRRRRRR!」「GRRRRRRRR!」「GRRRRRRRR!」

 それも一つや二つではない。道の向こうから、木々の上から、ビルの狭間から、轟々と流れて来るのだ。
 やがて、音源は現れる。一体、二体、三体、四体……続々と現れるロングアーム共は、群れをなしてカドシュ達とフレイムフェイスを取り囲んで行く。

 カドシュは理解する。さっき倒された一体は、単なる時間稼ぎの囮であり。
 自分達は英雄をこの場へ縫い止める、足枷になっているのだと。

「こ、ん、な」

 声を震わせながら、カドシュはフレイムフェイスを見る。何時の間にか立ち上がっていた炎の仮面は、刀を再び抜き放つ。

「――何しろこう見えて、意外と動物に好かれやすい性質でしてねぇ」

 言って、フレイムフェイスは地を蹴る。それに応じるかの如く、ロングアームの群れは一斉に吼えた。

◆ ◆ ◆

 あの日から、二十年近く。
 あの頃から、デザインが変わっていない防衛隊の兵員輸送車。

 その座席の一つに座るカドシュは、窓の外を眺めながら、改めて思い返していた。
 あの時、ロングアーム共は鎧袖一触にされた。カドシュどころか、フレイムフェイス本人さえ傷一つ負わなかった。それから幾つかのゴタゴタがあった後、カドシュ達は応援に来た防衛隊の部隊に預けられた。

 そしてあの時、こうも思ったのだ。
 自分に戦う力があれば、と。
 アンバー、だけでなく。
 町を、世界を、守る力があれば、と。

 決意はやがてエルガディア防衛隊への入隊という実像を結び、今ではカドシュも立派な隊員の一人となった。
 あまつさえ、とある新設部隊の一員として選ばれたのだ。

 誇りに思う事なのだろう。本来ならば。
 だが。

「いやー。にしてもこんなカタチでカドシュちゃんと再開するなんて思わなかったな」

 向かいの座席に座る赤髪の女性へ、カドシュは視線を移す。
 眼鏡をかけた、肩まで伸びた髪の、若い女。カドシュと同型のメイルスーツを着ている、やや小柄で線の細い、良く知った顔。
 久し振りに顔を合わせた、幼馴染。

「まったくだな。アンバー・シグリィ特別隊員」
った! カタいよカドシュちゃん! まるで防衛隊のヒトみたい!」
「そうだな。実はそうなんだ」

 ころころと笑うアンバー。あの頃から変わらない表情が、カドシュは好きだった。今でもそう思えている事に、少し安堵する。

 そして、愕然とする。安堵してしまっている自分自身に。

「どうかした? 車酔い? それとも久々の幼馴染の可愛らしさにビックリしちゃったとか?」
「少なくともそういうノリが昔と変わってない事は驚いてるよ」

 内心を注意深く押し殺しながら、カドシュは思う。

 何故彼女が。アンバー・シグリィが。
 フレイムフェイスになったのだろうか、と。

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