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音楽、ダンス、フットボール。「多様性」問題の突破口は、お祭り⁉︎

ジャン・ヴァルジャンも出てこない。パンも盗まれない。

映画『レ・ミゼラブル』も、ヴィクトル・ユゴー『レ・ミゼラブル』の舞台となったパリ郊外のモンフェルメイユが舞台。今や移民や低所得者が多く住む犯罪多発地域。現在の「レ・ミゼラブル(悲惨な人々)」が描かれる。

映画『レ・ミゼラブル』=フットボール

私たちが考えるフランス、特にパリのイメージとは一線を画す。フランスの格差社会、人種差別問題が詳らかになる。モンフェルメイユは、人種、宗教、職種、そして世代……いろいろな要素で分断され、それにより引き起こされる負の連鎖が描かれる。ラストはぷわーっと、ただただ鳥肌がたった。

分断された壁はより強固になっていくしかないのか? なくなることはないのか? その問いを真剣に考えると絶望的な気持ちにもなるが、ひとすじの光はある。

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そもそも映画のポスターは、嬉しさが爆発し、凱旋門前を占有し、皆で喜び合うフランス国民たちで表現されている。犯罪多発地域の絶望ではなく、「それでもひとつになれる可能性はある」という希望が示される。おおいなる皮肉である可能性もあるけれど……(ちなみに、地元に暮らす監督のこれが第1作目。3部作で構想しているようだ。あと2作はどの方向へ向かうのか?)。

それでもハッキリと言えるのは、フランスが2018年のワールドカップ優勝した瞬間、たくさんの壁は自然と瓦解され、フランスはたしかにひとつになった、ということだ。

ちなみに、その年のフランスチームのスターは“エンバペ”。カメルーン人の父親とアルジェリア人の母親を持っている選手だ。彼だけではなく、ギニア系のポグバ、アルジェリア系のフェキル、カメルーン生まれのユムティティと、ほとんどの選手は移民2世だったり、外国に故郷を持っていたりしていた。サッカーを通して、人種差別問題を考えるのはいつだって興味深い。

映画『ワンダーウォール』=音楽

NHKで放映され、あまりに好きすぎて、再放送と録画で3回見てしまった。単発作品にもかかわらず話題となり、劇場版が4月に公開される。一足先に試写に赴く。

放映当時あまりにも感銘を受け、京都大学の大学院に通う知人に、このドラマのモデルとなった吉田寮を案内してもらった。ドラマがかなりの再現性で描かれていたことも分かり、それからは吉田寮に起こっていることをチェックしている。

ドラマに登場する学生寮存続に対する寮生の意見はバラバラだ。人種でも、イデオロギーでもなく、この場合はただ単純に、ひとつの問題に向かうテンションが全員違うのだ。多数決制度はなく、全員の意見が一致するまで対話を続けるルールを課している学生だけの自治寮運営は、なかなかにままならない。

それでも、そんな自分たちだけではなく、自分たちと対立している人たちとさえ意見を分かち合えるかもしれないという希望が描かれる。それは、寮生と地域には住む方たちとの「合奏」で表現されている。

映画『スウィング・キッズ』=ダンス

先日観て感銘を受けた韓国映画『スウィング・キッズ』。ここでは、人種、宗教、イデオロギーが異なる、通常なら絶対に分かり合えるはずがないとされる強制収容所の寄せ集め5人のチームがダンスでひとつになる物語が描かれる。

多様性の突破口

世界中を旅する自分を夢想していた頃(まだ諦めていないけれど苦笑)、「楽器ができるか、陽気に踊れるか、ボールを蹴れるか」。それさえできれば、どんな国でも「どうにかなる気がする!」と真剣に思っていた自分を思い出した。

サッカーはルールが明確に定義されているので少し違うのかもしれないが、音楽とダンスは絶対に何かある。地球外生命体が人間を観察したら、絶対に「音に合わせ、皆で同じような動きをする生命体」だと認識するのではないか。日本中の祭りを回っていた時も、世界の秘境を旅するような番組を見ている時も、そんなことを考えている。

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言葉を尽しても、尽しても、なかなか分かり合うのは難しい。人種や宗教、イデオロギーが異なれば尚のこと。

西洋の社会は今、明らかに異なったふたつの方向へと動いているように私には思える。ひとつは、政府や産業界に導かれた主流の文化で、経済成長の持続や技術の発展に突き進み、自然の限界に迫ろうとして基本的な人間の要望をほとんど無視している動き。もうひとつは、広い範囲にわたる考えやグループからなる反主流の文化で、すべての生命は分かちがたく結びついているという古来からの理解を保持し続けている動きである。

『懐かしい未来』の著者であるヘレナ・ノーバーグ=ホッジさんは、別の著書『ローカルの時代』では、以下のように語る。

地域に根付いた文化、とくに歌や踊りは、生き生きとしたつながりを育むことができる参加型のアートです。グローバル化した世界にいる人たちは、みんなで歌を歌うことの喜びや楽しさを完全に忘れているでしょ~中略~世代を超えたつながりができて、喜びがいっぱい発見されるのでしょうね。

現代は、「多様性、多様性!」と言われているわりに、言葉を使わず(頭を通さず)、そこにいる皆と本能的にひとつになれているという感覚を味わえる機会が著しく減少している気がする。いろいろな壁を超えて、ひとつになるためには、その地域に根付いた「音楽」「ダンス」、乱暴に要約するなら「祭り」が必要なのではないか、というのが私の仮説。

世界中で「多様性を受け入れよう」という声が広がっていることに対し、私たちは「多様性を受け入れることは難しい」という心構えを持つべき。

多様性を受け入れることは難しい。だからこそ、頭ではなく本能レベルで「すべての生命は分かちがたく結びついているという古来からの理解」を深めることが必要なのではいか。昨今のフェス人気の加熱も、実はこういうところが大きく起因しているのではないか、と勝手に考えている。

この春、そんな機会が制限されている。夏まで続くかもしれない。ライブやコンサートはもちろん、季節が進んで、地域の夏祭りに人が集まれなくなったら? すぐには顕在化しない潜在的ダメージが、はかりしれない。と私は思うのだ。

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