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「世間」に生きる。「社会」に生きる

NHK Eテレノ番組『SWITCHインタビュー達人達』のテレビで行った、鴻上 尚史さんとブレイディみかこさんの対談とその後に行った対談を収録した一冊を読んだ。

その中の鴻上さんの指摘。

価値が多様化して、「世間」が弱体化して、「社会」とつながるしかない時代になっていると思う ※鴻上さんは、自分と利害関係がある人たちのことを世間、自分と全く利害関係がない人たちが社会、と定義する。

さらに、ブレイディさんの(息子さんの)指摘。

日本人は、社会に対する信頼が足りないんじゃないか

先日の森元首相の失言は、「世間」では通じていていた言葉が「社会」では全く通用しなかったという典型的例な気がする。

そして、昨今のclub houseの盛り上がりも、携帯番号でつながっているゆえの安心感からなる「世間」から、「社会を垣間みたい」、そしてあわよくば「社会とつながりたい」と願う欲望の表れのように思えてきた。利害関係のない「社会」へのコミットは、コメント機能がないだけで、だいぶと心的負担が軽減されることも大きそうだ。

対談の中では、「世間」と「社会」の話から、「シンパシー」と「エンパシー」の話へ。

シンパシーというのは、もっと感情的に同情したり、同じような意見を持つ人に共鳴したりすること。(中略)でも、エンパシーはそうじゃなくて、対象に制限はない。自分と同じ意見を持ってない人でも同情できない人でも対象になり得る。この人の立場だったら自分はどう感じるだろうって想像してみる能力

SNSは「社会」とつながるツールになり得るが、たいていの場合は「世間」とつながるために終始する。シンパシーは心地よく、エンパシーには負荷がかかる。

多様性という言葉が耳にタコができるくらい叫ばれている。「世間」で生きていれば良かった時代はシンパシーが重んじられてきたが、これからの多様性前提社会の中では、「社会」の中で「個」として生きていく覚悟と共に、エンパシーを養う不断の努力が肝要になってくる。

そんなことを考えた一冊だった。





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